「契約の龍」(154)
- カテゴリ:自作小説
- 2010/03/01 00:06:50
「お疲れさま。課題の提出だけにしては、ずいぶん時間がかかったね?」
薄暗い部屋のドアを開けたところで掛けられた声に、一瞬足が止まった。声や口調が、クリスのそれに酷似していたからだ。だが、薄暗い廊下を歩いてきた目には、クリスが依然、ベッドの上に横たわっているのが見える。むろん、声をかけてきたのは、その横の椅子に座ってクリスの腕を洗っている、祖母のクラウディアの方だ。
「ちょっと……雑用をあれこれと片付けてきたので」
「卒業判定はこれからでしょうに、もう引き上げる準備?」
「いえ、まだ、そこまでは。……ええと、その話、してましたっけ?」
確かこの人には「課題のレポートを提出しに行ってくる」としか言ってなかったはずだ。今年が卒業年次だとも言ってないし。……寮長の件は、男子寮の慣習だし。
「この子から聞いてるわ。当てにしてた人を当てにする事が出来ないから、って。……男子学生だってことは、敢えて黙ってたみたいだけど。でも、クライドのほうから情報は来てたから、察しはついてたけど」
「…あの、「通信手段内蔵」の双子ですか?でも、片割れの方は、あなたの弟子ではない、と伺いましたが」
「クリストファーとニコライの師匠は、わたしの夫だもの。クライドの様子を聞くくらいは大した手間でもないわ。…そのついでにクリスの事もね」
クラウディアがクリスの右腕のマッサージを終えて、立ち上がる。盥にクリスの手をこすっていた端切れを放り込んで抱えると、
「じゃあ、これ換えてくるから、クリスの見張りはよろしくね。…よからぬ振る舞いがしたかったら、手短にね」などと言いながら戸口の方に向かう。
「…しませんよ、そんな事」
肩を竦めて部屋を出ていくクラウディアを見送って、ベッドの傍らに立つ。
ベッドの上のクリスは、ただ安らかに眠っているように見える。だが、この状態でもう十日が過ぎている。クリスがほのめかした「長期戦」は、数カ月、あるいはそれ以上を想定しているのだろうが…ただ横たわっているだけのクリスを見るのはいたたまれない。
身をかがめて、頬にそっと触れる。柔らかく温かい手触りだが、身じろぎ一つしない。かなり冷えた手のはずなのに。
「…やっぱり、抜け殻なんだな。そんなに手強いのか?」
返事はない。期待していた訳ではないが。
「手に負えないようなら、呼べっていったのに。……それともまだ余裕があるのか?」
額にかかる髪を払う。前髪だけは、出会った頃よりもだいぶ伸びた。
…あの頃は硬質な印象も手伝って、少年にしか見えなかったが、今は…
……いや、クリスが少年の格好で大勢を撹乱した冬至祭から、まだ一月も経っていなかったか。
なかった事にしておきたい記憶のせいでうっかり忘れていたが。
クリスの顔から手を離したところで、タイミングを計ったかのようにドアを敲く音がした。ドアを開けに向かうと、手を触れる前にドアが勢いよく開いた。
「はい」
という声とともに目の前に布の山が差し出された。思わず受け取ってしまったが、部屋が薄暗いせいもあって、正体が判らない。
「えーと…これは、何ですか?」
「せっかくだから、着替えとシーツの交換を手伝ってもらおうかな、と思って」
空の盥となみなみと水が入った水桶を運び込みながらクラウディアが言う。
「せっかくって…」着替えって。それは、ちょっと。
「だって、長引いたらあなたが世話をするんでしょ?手順が判らないなら知っといた方がいいし、知ってるなら手伝ってくれた方が早く済むもの」
「…それを、今から、ですか?」
陽が傾きかけているんですが。そういうのは明るいうちに済ますものでしょう。
「もうちょっと帰ってくるのが早ければ体を洗うのを手伝ってもらおうと思ってたんだけど」
「洗う、って……異性にそういうことさせるのに抵抗はないんですかっ?」
…思わず早口になってしまったが、クラウディアはしれっと答えた。
「だって本人の希望だもの。よほど信頼されているのねぇ」
「いくら本人の希望だから、って……」
絶句している俺を後目にクラウディアはてきぱきと何かを洗う支度を始めた。
暖炉で沸かしていた湯を小さめの盥にあけ、水桶の水と混ぜて温度調整する。作業机の上に並べられている瓶をいくつか取り、盥の湯に数滴落とす。盥からかすかに清涼感のある甘い匂いが漂ってくる。
「それは…何ですか?」
「香草油よ。お湯だけでもいいんだけど、十日もろくな手入れしてないから、ちょっと、ね」
ろくな手入れって……敢えて放置していたのか、手が回らなかったのか。
「ちょっと、クリスの頭、持ち上げてくれる?」
盥をベッドの上に運び上げて呼びつける。
指示されたとおり、クリスの肩の下に手を入れて、上半身を持ち上げる。力の入らない体は、支えるのが難しい。
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話がつながらね~/(°ё°)\
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