追憶 〜祖母〜
- カテゴリ:人生
- 2010/03/08 13:24:57
昨日の日記コメントで
ふと 自分の祖母のことを思い出しました。
母方の祖母 父方の祖母
対照的な二人
まずは 母方の祖母・・・
明治生まれで 京都で育った
和服の似合う 最期まできれいだった女性
なくなってもうずいぶんになるけれど
思い出すと 懐かしさに涙がでてきます。
苦労しても 辛い目にあっても 人をうらまず
忍耐し 感謝し 多くを語らず 望まず
華奢な体のどこにそんな強さが と思うぐらい
がまんづよい人でした。
母子家庭から連れ子で新しい家庭に
義理の父親は南画(色彩ありの日本画)の師匠
躾にもきびしい人だったそう。
勉強が好きだったのに 妹は女学校まで出してもらったけど
自分は行かせてもらえなかったらしい(母から聞いた話です)
旧制高校三高・・・今の京都大学の学生だった人に見初められ学生結婚
はじめての子供 ミツルは 生まれてまもなく 高熱でなくなったらしい
16才ぐらいの写真をみたら ひさし髪に着物
ハーフのような顔だちの 思慮深そうな 少女
(私はこの写真が好きで ずっと持ち歩いていたのに
ある日鞄を盗まれて その中に入っていたので
もう手元にはないのです)
第二次大戦中は 満州・・・
昔の男の人にありがちな
外での玄人さんの二号さんにできた子供も
「育てられないから」とおしつけられたら
黙ってひきとって 育てた
あるいは女中(差別用語ですが)さんにもお手つきだったのは
認知症になって うわごとのようにもらした
その言葉で 私は知りました。
ひきあげてきてからは 貧乏暮らしで苦労をし
夫に先立たれ、シベリア抑留から帰ってきた長男は
うつろな毎日・・・
かわいがっていた末娘は はやりの肺結核で
満足な治療をうけさせる事ができず
ある朝 ひどく咳き込んだ音にきづいて
胸にだきとめると 大量の喀血
そうして息をひきとりました。22才。
「保子ちゃん、保子ちゃんと 何度もよびかける
私は常に祈っていた
逝くときは やすらかにと
ああ 神様ありがとうございます ありがとうございます
と祈れども 今はただ 涙・・・・」
そういう文章を 祖母の没後 数年してみつかった手帳に
みつけました。
誰も見ることのない日記だから
人の悪いことを書いても良さそうなものなのに、
おめかけさんの事も
「敏男が生きていた頃は いろいろ思ったことがないではないが
夫が亡くなった今となっては なんだか おたがいよいお友達に」
という記述があって
ああ、とても この心にはかなわない、と思いました。
私の記憶にある祖母は りんとして 夏のあついときも和服
姿勢がよく 小柄だけど 姿のうつくしい 立ち居振る舞いも
言葉もおだやか
すぐにどなったり、たたいたり、つねったりする ふとっちょの母とは
どうにも結びつかず(笑)
おかあさん、ほんとうの子供かなあ?
なんて思ったものでした。
母がきいきいと どなっても 素直に聴けなかった幼い私も
祖母が 私をみて やんわりと
「けいこちゃん、そんな風に 足をなげだして床にすわるの、
おばあちゃんは あまり すきじゃないわ・・・・」
と笑いながら言うのには
(しまった。。。。。。。正座しなきゃ いけないんだ
こういうときは・・・・・・)
と、内心で下唇をかんで 失敗した・・・と
深く反省するのでした。
ほらね 何十年もたった今でも きちんと思い出す・・・
あ、でも正座は苦手です、今も
憧れの祖母なのに、私はあまり似なかった・・・・
と、思っていたら 祖母の葬儀後の、精進落としで入った料理屋さんで
遺影をみた おかみさんが
「お孫さんと よく似ていらっしゃる・・・顔だちが・・・」
そう言われて とても嬉しかったものです。
(できれば体型も似たかった。。。。笑)
年をとっても、向上心があって
新しい物にも興味があって
当時中学生だった私に 簡単な英単語、いくつかでも教えて、と
言ってくれたことも 今、思い出しました。
同居していた伯父が亡くなってからは
ずっと一人暮らし
年をとってきて一人では不安なこともあったろうに
「あなたたちには あなたたちの生活があるから
あまり口を出してはいけないし
おばあちゃんは 神様も仏様もいるから淋しくないから。」
と・・・
和服以外に洋服は 既製品は大きすぎて着られないから
近くのブティックで仕立てていました。
祖母なきあと、ブティックのオーナーが
「なくなられたのですか・・・ここへ見えるお客様からも
すてきなかたね、あんなふうに年をとりたいわ、って
評判だったのですよ・・・」と言ってくださったのが
嬉しかったです。
最期まできれいだった、と 冒頭で書きましたが
葬儀に出てくれた父方の従兄弟は
「すっかりやせて骸骨のようになってる。。」
とつぶやいてました。失礼なっ、って そのときは思ったけど
もしかしたら 客観的にはそうだったかも
私の祖母への愛情が 最期まで美しい人に見せていたのかもしれません。
想い出話に つきあってくださった皆さん ありがとうございます(^^)
いえいえ
どういたしまして(^^)
どれか、なんか ちょっぴりでも、お役にたてるといいですね
お返事、ありがとう。
下のお言葉、果たしてどこまで私が理解できて、実生活に活かせるか、
それには情けないことにちょっと自信がないのですが、
心に留めさせていただきます。
うまくお礼もいえないのですが、ありがとう~!
もしも このつたない私の文章からでさえ
なにかしら励ましのようなものが感じられるとしたら
そのためにこそ 書かせてもらったのかもしれないですね
忍耐強い、ということは しかし 気をつけないと
最近は そういう人にもたれかかるような 不安定な人達も増えてきて
いたずらに 甘えさせるだけの 危険性もあると
この数年で思い知らされました。
友だちと、最近話しているときにね、友だちは
「弱さを武器にしないこと、させないことも大切だわ」
という事を言ってました。ほんと、そう思うのよ
とてもすばらしいことや よい性質は どうかすると
違う方に利用されることも多いから
賢く生きなければいけないとも 思いました。
人は清くありたいと願っても
完全に清くはなれないものだと思うわ。
ベストをつくすのは大切だけど 完璧はめざさないでね
肩の力をぬいて ええと、あまりにも自分に厳しすぎないようにね(^^)
見当違いの心配だったら 笑い飛ばしてくださいな
ここでこんなお話に出会えるなんて。涙しました。
やはり、昔の人は忍耐強かったのでしょうか。
お祖母さんがNoelleさんに見せていた凛としたお姿、
亡くなられた後にNoelleさんが見つけられたお祖母さんの内側のお顔、
そのどちらもが、しっかりしなさいとこんな遠くの私にまで、光を与えてくださるようです。
いいのか悪いのか、私にはわかりませんが、
私もやはり、お祖母さんのように、忍耐強く、
それから、どんなことも恨めしく思っても思わないことで自分の清らかさを貫けるようでありたいです。
全く、かくいう私はお足元にも及ばないのですけれど。
大好きだった祖母のことを
そういう風にいってくださって ありがとう!
親子でも敬語だった時代ですね
躾も、ヒステリックに体罰をする虐待とは違う、
きちんとした立ち居振る舞いをできるように、という
ちゃんと一線をひいたもの
甘やかしたり迎合したりか 虐待かの 両極端が増えてしまっているような
昨今の風潮を憂えるものです。
なんでも古いのがいいかというと そうではないけれど・・・
そうね 無造さんは、忍耐の人だもんね
身近な私を知る友人たちからは Noelleさんは忍耐強い
といわれます(^^)・・・いいのかわるいのか 笑
そのような女性を、今でもみることができるのでしょうか。。。
苦労してきた人のみが備えることのできる風格。
幼少からの厳しい躾も日本の特徴ですね。
そんな尊敬できる人が少なくっていく日本がさびしいです。。。
ちなみに無造の好きな言葉は、「忍耐」です。
長い日記 読んでくださってありがとう(^^)
字数制限があったので だいぶカットしてますけど・・・
コメント、つけづらい日記だったかもしれないのに
感想を書き込んでくださって うれしかったです。
女の一生、モーパッサンと遠藤周作と どちらかな・・・