無常といふ事…(小林秀雄氏礼讃)
- カテゴリ:日記
- 2010/05/04 02:06:16
『一言芳談抄』の中に、
「…いつはりて、かんなぎのまねしたる生女房の、
ていとうていとうと鼓を打ちて、とてもかくても候…(一部略)」
とかあると、小林秀雄氏がお書きになってますが、
絶対、こんな格好ですよね!?
という訳で、ニセ巫女さんですが、(生女房ですらない年齢ですけど)、
メガ花祈願だの、種の落ちない呪われた庭のお祓いだの、
勝手に伺わせていただきます~。
閑話休題(それはさておき)…。
小林秀雄氏は、私の最も尊敬する作家の一人ですが、
インスピレーションの働く瞬間、というものを
これほど鮮明にお書きになっている方も珍しいかと思います。
『無常という事』(古い文庫本とかだと、旧字体で「う」は「ふ」で出てます)も
その一つですが、
私も、レベルは低いのですが、近しい体験をしたことがあります。
奇しくも同じ京都、まあ、私の場合は、銀閣寺の庭園でしたけど。
銀閣寺は大好きなのですが、足利義政は、若い頃、何となく毛嫌いしてまして、
何だあの野郎、自分だけ贅を尽くして、こんな庭園作って政治に背向けやがって、
とか思ってたのですが、
ある4月も終わり頃、そろそろ哲学の道に桜の舞い散る頃に、
人出も多い銀閣寺の庭園を何ということもなく歩いていた瞬間、
ぱっと、分かっちゃったんですよね。もう、分かった、としか説明がつかないんです。
『ああ、この人、つらかったんだな。』って。
もう、後は、呆然自失。銀閣寺のお庭の小径の木陰に立ち尽くしたまま、
涙が流れるのを止めようがないんです。何分も。
怪しんで観光の人々が通りすぎてゆく、中には「大丈夫」と声をかけて下さる方まで。
でも、どうしようもなく、ただ呆然と立ちすくんでました。
自分の思い込みに過ぎないだろう、といくら理性的に言い聞かせても、
もう感情的というか、本能的に感じちゃったことの前では、
そんな理屈、通用しないんです。そんなに歴史にも造詣深くないというのに。
たぶん、『内面的真実』、というのは、こういうのを言うんだろうな、と思います、
などと、本当に、「今となっては、そんなつまらぬ考え」しか出てこないんです。
その時は、本当に、銀閣寺を出ても「何かしらあやしい思いをしつづけた」のですが…。
その後、『無常という事』を読んで、ああ、これだっっ、と。
勿論、私がした思いなぞ、小林秀雄氏の前では、ほんのとるに足らぬほどの事
でしょうけど、難解と言われる彼の文章が、
何故かしらそれからは、以前ほど読みにくくはなくなりました。
たぶん、私がした思いの延長線上、はるか遠くに、彼がいるのだろう、と、
これも「分かった」からなのでしょう。
勿論、「取るに足らぬ幻覚が起こっただけ」なのでしょうが、
「そういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。」と。
ただ、私にはまだ、この生女房ほども「無常といふ事」が分かっていないのでしょう。
「常なるもの」を見失いがちですから。
音楽で致しました。
ジョン・コルトレーンの「My favorite things」を
JAZZ喫茶の大きなスピーカーの前で
聞き及ぶうち
彼の難解なAD LIBに
自分の心を重ねていました。
「分った」のか「共感できた」のか不明ですが、
それ以来JAZZという表現方法に
取りつかれれています。
「無常」は、仏教用語ですよね。
「常なるはなし、時流るるが如し」
この世の中に、
永遠なものは一つとしてない、
という教えでしょう。
だから、執着を捨てなさい、
ということだと、
僕は理解していますが・・・。
小林秀雄の愛読者に出会うとは、夢にも思っていませんでした。
そして銀閣寺での体験、すばらしい想像力と感性、あなたは誰?
私にも似た経験あります、セザンヌの絵に感銘を受けて、私の一生は決まったようなものですが、
プロヴァンスに実際行ってみて、ヴィクトアール山を目の前にしたとき、あぁ、ほんとうにそうだったんだ、
と彼の絵がなんだったのか、分かった気がしたのです。
「芸術家の肖像」も好きです、セザンヌのことも書かれています(これはセザンヌにかぶれた後にわかったことでしたが)。彼の眼というか、精神性というか、ほんとうにすごいですね。
高校の時の親友と、よく話し合いました、彼の評論について。
彼もまたすごい才覚の持ち主で、放課後の誰もいない講堂で、彼の弾いたバッハ、聴いていたのは私だけでしたが、それ以上のバッハを聴いたことがありません・・・いまだに。