抜き打ち
- カテゴリ:仕事
- 2010/05/14 10:09:17
水曜日に、抜き打ちで漢字の小テストをやってみました。
油断していたようで、慌てまくって顔色を変えていましたw
テキストなどにある漢字の問題は、あまりにも親切で
送り仮名のことは考えずに解答できるようになっているので
少々、意地悪くwカタカナ部分を正しい送り仮名をつけて漢字に直すようにと出題してみました。
なかなか、面白いことが色々わかりました。
まず、授業中の反応では殆ど差が無いように見える2つのクラスに
漢字の記憶量においては、明らかな差があるということがわかりました。
これは、頭の良し悪しよりも、日頃の努力の差が如実に表れたのだと思います。
先日妄想した下剋上計画の遂行のためには、失礼にも下のクラスと呼ばれている子供たちの
努力スイッチを入れる必要がありそうです。
それと、漢字の含む意味合いまでは感じ取らずに覚えているのじゃないかと思って
「ちょうど良い大きさの箱にオサメル。」と出題したら
案の定、「納める」と答える子が大勢いました。
この場合、正答は「収める」ですよね?^^;
その文字に含まれるニュアンスを理解していないと、漢字ならではの利点が活かせません。
う~~ん、まだまだローティーンとはいえ、結構漠然と生きてきてるなぁw
もう1つ、ちょっと意地悪な仕掛けをしてみたら、なんと全滅でした。
新出漢字が、音読みのみで登場していたので訓読みで出題してみたんです。
今日返却したら、きっと
「習ってな~~~~い!!」
とブーブー言うことでしょう。
ゆっくり教えるという、近年の教育方針の弊害ですね。
新出漢字は、出た時に、意味も、いくつかある読みもセットで覚えなければ・・・・
そういう当たり前の事を、ぶつ切りにするから
せっかくの、漢字が持つ素晴らしい性質を我が物にできないのです。
教育の分量ばかりに気を取られて、日本の独自の文化の良さをないがしろにしては勿体無いですよね?
だからね、最初の授業の時に「雑読」を勧めておいたんです。
手当たり次第に本を読んで御覧と・・・・
義務的にじゃなくて、ほんの隙間時間に、自然に本に手がのびるように
そんな習慣が身につけば、全教科の底上げになるし
自分の明るい未来にも出会えるかもしれませんよって、言ってみましたw
人間の文化って何なのかを、感じ取れる教育現場であってほしいと思っています。
基本的に国語ができる子って、まず第一に、読書量が多い子なんですよね。数多くの言葉に出会っているから、読解力も表現力も自然に身についているわけで・・・
現場の意見や成功例って、たぶん、官僚は無視なんでしょうね。というか、そういうシステムがないからなんだろうなあ。
お久しぶりで~~す♪
お疲れ様でした。肩凝りと眼精疲労には、きてませんか?^^;
なんかねぇ、文科省だって、それなりに考えてはいるんでしょうが
大切な基礎の作り方が、少々お粗末な気がしたりしています。
日本語は、特に、全ての基礎なのに、結構ないがしろにされている気がしてなりません。
流行のディベートなんかを、小学校の段階から取り入れたりするのも
悪いとは言いませんけど、もっと先にしなきゃならないことがある気がします。
話すこと、表現することも、大切なことなのですが
それは、充分な言語の知識に裏打ちされた自信があってこそ、磨かれるもののように思うんですけど・・・
言葉を、大切な文化としてとらえる気持ちがあれば
ことさらに愛国心を教育に盛り込もうとしなくたって
自然な愛国心が身につくんじゃないのかなぁ?
言葉と言う文化が無くては、人として何かを学ぶのって難しいと思うんです。
何が足りないのかわかるほどの見識はありませんが、何かが足りない気だけはしていますw
ああぁぁ・・・・耳が痛いなぁw
漠然と生きちゃいました~♪
ただ、好きなことだけは、結構こだわってましたけどね^^
努力って、本当に難しいことなので、サラッと努力できるだけの
大人な考え方の人じゃない限りは、とりあえず、好きなことだけでも
夢中になることで、極めていくぐらいのことになっちゃうんですよね^^;
多岐にわたって、まんべんなく努力することができる冷静な賢さがあれば
今頃は、私だって・・・・・・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・
もはや、妄想世界だけのお話になってしまいました。手遅れとも言いますw
ただ、仰る通り、彼らの今の柔軟な頭脳で気づいてくれれば
本当に素晴らしいんですけどね^^
私もこのたびこんなに忙しかったのは、昨年までと同じ問題であるはずの答案の添削に、前より時間がかかるようになったということもあるんです。それは、今までは、テキスト全部を勉強してから、添削問題を解いて提出する、という流れだったのが、最後の作文指導の回を勉強しないで、添削問題を解いてもよい、という流れに変えたからなんです。なぜ、そのような中途半端なルールにしたのか自体、疑問なのですが、どうも、作文の回を勉強してから提出するとなると、作文は面倒だから勉強しない→添削問題を出さない→いずれ退会、というようになるからのよう(あくまで推測)
でも、その作文指導の回を勉強せずに、提出された作文を、添削するとなると、これまた、一からなんですわ。いきなり、ポイントやその回の達成目標もわからずに好き勝手に作文を書かせても、効果は全くないよなあ。子供のゆとりを考えれば考えるほど、子供の力は伸びません。当然のことながら・・・
できる子は、ちゃんとテキストを勉強して書いてくるので、もちろん素晴らしいわけで、ですから、こちらの指導ポイントも明確になり、ますます、その子のプラスになる・・・
できない子はどこかで手を抜くから、せっかく勉強に費やした時間も生かされない。だから、手を抜かせてはいけないんです。 そんなこと思ってた、怒涛の日々でした。
って、すっかり色々固くなったおばちゃんは思いますw
でも、それってやっぱり過ぎてみないと気が付けないことの一つなのかもしれませんね。
友人の父親で大学教授の先生が、友人に言っていたことで
「今努力しなくちゃいけない、ってことに気がつけるかどうかも頭の良し悪しの一つ」
みたいなことがあるそうです。
振り返って「あの頃もっとやっておけば」って思うようなのは、結局その当時それだけの賢さが無かったってことなんだそうです。
だからこそ、そのお年頃でもすでにクラスが分かれると、漫然と生きているか、そうじゃないかが垣間見えちゃうのかもしれませんね。