ただ消え去るのみ?
- カテゴリ:日記
- 2010/05/17 19:19:01
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。
骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
(現代語訳)
時が過ぎ、全てを忘れてしまうわけではない。けれど世を去っていった者は日ごとに縁が薄くなっていく。 口では「悲しい」とか「淋しい」などと、言えるだろう。でも、死んだ時ほど悲しくないはずだ。それでいて、下らない話には、ゲラゲラ笑い出す。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。墓はやがて苔むし枯れ葉に埋まり、夜風と月だけが友となるのだ。
徒然草、三十段の二段目です。
昨日は、法事で栃木県まで行ってきました。なので巡回お休みして申し訳ないです。
母親の弟の奥さんの一周忌でした。
お葬式のときよりは、ずいぶんと人が減り、なんとなく思い出したのがこの部分でした。
時と共に、縁は薄まって行ってしまうモノなのでしょうかね。
これは、死者だけではないような気もしました。
生きている人同士だって、時と共に縁が薄まっていってしまうこともありますよね。
原因は様々あるでしょうが、一度交わった縁は大事にしていきたいものです。
もちろん、自分からだけでは成立しません。
相手からも、大事な縁であるように思われていたいものです。
場所は山寺で、ものすごく見晴らしがいい所です。 余命を宣告されていた故人は、ココで眠りたいと決めたそうです。
自身の余命を宣告されながら生きると言うのは、どれほど恐ろしいことなのでしょうか?
想像すら出来ません。ですが、宣告された余命よりも3ヶ月長くがんばって生きた。
とてもすごい人だったんだなぁ~と改めて思いました。
色々、書きたいこともありますが、この辺で~
毎年再生する初夏の緑を見て…
う~ん、確かにそうですけれどね。。。
私は、忘れても良いと思います。
(亡くなった人はね。。。)
生きている人を忘れてはいけないと思います。
禅語に、「竹に上下節あり」っていう言葉があるのですが、
この意味は、竹は上に伸びていきますけれど、
ところどころに節がある、、、
これは、人間に例えると、人生においての節目は大切だ、、、
っていう意味らしいです。(お茶席での禅語として)
これと同じように、亡くなった人のことは、
日々忘れ去って行くのも仕方がないと思うのですが、
例えば、1周忌、3周忌といった節目、
そういう時には、生きている親族の方々を中心に
集まって個人を思い返す、、、って言うことも大切なのではないかな?
っと思います。
それによって、親族の集まりもあり、
現在生きている人との交流も行われ、一石二鳥(。◕‿◕。)v
っとまあ、長くなってしまいましたが、私はその様に考えております。
人間は、生きている限り、立ち止まって振り返ることはあっても、
基本的には、前を向いて生きていく、、、っていうことが大切ですから…。
私も理屈では分かるんですが、実践するのは難しいんだな~♪
長いコメント失礼しました。(*_ _)ペコリ
こちらこそ、またタウンで会いましたらよろしくおねがいします。
色々考えるところはあるでしょうが、楽しく過ごせるようにしてくださいね。
あらArche さんは医療関係に従事してるかたなのですか?たくさんの人の死を見つめる大変な職業だと思います。
縁は、自分が大事にしている限りは続いていくような気がします。
確かに、新たな縁を呼び込むきっかけにもなっているように思います。
葬儀や法事でしか、会えなかった人もいますよね。そういう意味では悲しみだけでは無い様に思います。
人と人の縁は、大いなる偶然か、神の必然か? それは時の回廊を巡る永遠の謎かけなのかもしれません。
「縁」とは普段からかかわりがあるんですね?どんなことなのでしょう?少し興味があります。
まだ本当に最近ですね。今はまだつらい時期だと思います。
思い出すことで、縁はまだ繋がっていることを確認できるのかもしれませんね。
そうですね、遠足みたいなノリで、わいわい行くと、父親も安心なのかもしれませんね。
まあ女性は、程度の差はあれ、少しはファザコンの気を持っているのかもしれませんね。
寿命まで生きたなら、納得して悲しくない。なんてことはないと思いますよ。
悲しいものは悲しいです。でもその悲しみに耐えられると判断されて地上に残されたのです。きっと
本当に、その日の朝まで普通に元気だったとききます。
癌というのは本当に恐ろしいですね。ばしょは本当にいい所で、山の中腹で周囲を緑で囲まれた、気持ちのいい風が吹きぬける所でした。
そうですね、なにがきっかけで、どう転ぶかわからない、それが楽しいのかもしれません。
縁を大事にしていれば、いい事も、楽しいことも増えますよね。
お寺の血筋の方なんですね、袖すり合うも他生の縁 なんていいますよね。
道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うようなささいなできごとでも、それは単なる偶然ではなくてすべて前世からの因縁によるものだから、どんなささやかな出会いも大切にってことですよね。
徒然草が特別すきって訳ではないのですが、なぜか思い出しました。
勿論、一字一句正確に覚えてるわけはないですwなんとなくそんなのがあったな~ってことですね。
そうですね。これからもよろしくお願いしますね。
そうですね、縁は大事にしたいですよね。
不思議な力で引きあった出会いなのですから、なにかしらの神秘的な力が働いているのかもしれません。
さっきは少しでしたが、またお話できて嬉しかったです。
またタウンで会ったら是非声を掛けてやって下さい。おやすみなさいww
選んでもらう時があります。
自分の親族でもないのに、亡くなられるとすごく悲しくなりますね。
ずっと心の中に残ります。。。
いろんな場所でいろんな方と出会いますが・・ほんとに縁がある方とは
続いていくから不思議ですね^^わたしも大事にしたいと思います^^
ココ「ニコタ」で出会えたのもやっぱり縁なんだと思います。
そして…死は悲しいだけのものではないとこの歳になって思うようになりました。
いえ、もちろん悲しいのですけど。
いま周りにいる人だって少し違う道をいけば会わなかったはず・・
でもやっぱり時間が経つと、その分離れていくのを時々感じます。
だけど、今あるつながりを大切にしたいって思います^^
ちょっと「縁」とは普段からかかわりあるからコメしてみましたw
私もいろいろ書きたいことがありますが、
今はまだ無理といった心境です。
お世話になった看護師さんに、
『思い出してあげることが一番の供養ですよ』と言われました。
叔母様の一周忌に“人とのご縁の大切さ”を考えられて、
それをこうして伝えてくださったことが
叔母様には何より嬉しいことだろうと思います。
大事なことを思い出させてもらい、
ありがとうございました♪
お墓参りもいきますが、家族でわいわい行くので、それ程しみじみすることはありません。
「孫つれてきたよっ」て。
ただ、聞いてほしいことがあるとき、もう聞いてもらえないと思うと、どうしようもなくなります。
そういう時、父の深い愛を感じます。ファーザーコプレックスだったのかな・・・。
普通の寿命まで生きたならそう思わなかったんでしょうか、わかりません。
叔母さまの一周忌のご法要だったんですね。
叔母さま余命より 3か月も長く頑張られて凄いことですね
自分の気持ちが大事で 辛かったかもしれませんが、 天命を全うされたんですよね
山寺の見晴らしのいい所を選ばれたそうですね 叔母さまは 安らかに眠られてることと思います。
人の命は図り知れません。。。毎日を大事に生きていきたいなって思っています。
今、という時間を大事にして。。。叔母さまのことを思い出しながら、恭介さんも頑張ってくださいね。
人の縁は、お互いの気持ちも大事ですね。疎遠になっても 何処かで繋がってる。。。。。
これから、恭介さんの人生において、素敵な出会いをされると思います。その縁を大事にしてくださいね(^^ゞ
でも何かがあって、連絡が取り難くなるならともかく…。
相手は、そこにいるのです。
よく疎遠になるけど、それは連絡を取る努力をしないからかなと思うことが多いです。
ニコタに来れたのも、そんな相手に、ふと思い出して連絡を取ってみたから。
縁は異なもの、味なもの…ですね^^
“ご縁”は大切にしたいモノですね^^
出逢う“ご縁”とは、擦れ違うだけでも「決められた」“ご縁”と言います。
(すみません^^; 寺の血も引いてるので説法臭いかも?)
いくつか“ご縁”に関しては、書いてますが、
生者も死者も“ご縁”が薄まるのは悲しいコトですね。
それが“血縁”であれば虚しくなりますね…。
出逢えたコトに感謝しつつ、
“ご縁”を繋いでいきたいですね^^
徒然草…久しく読んでない…。
また紐解いてみます^^
恭介さん・・昨日のその光景で・・徒然草、三十段の二段が思い浮かんじゃうんですね~@@
素晴らしい恭介さんの学力・・知識・・に降参致しました・・参りました~^^
義理の伯母さん・・頑張ったんですね・・
今・・見晴らしのいい所でゆっくり休まれてますよ~
静かに・・眠られてますよ
最後の望み叶って喜んでるね
ここで恭介さんと会えたのも何かの縁ですね
これからも・・お願いしたいと思いますm(__)m
その人を想う時、その人は、ちゃんと存在している・・そう、思って、生きていきたいです。
うまく言えないけど、「ご縁」を大切にしていきたいです。