「薔薇の下に」
- カテゴリ:自作小説
- 2010/05/30 03:36:08
【四阿】
南天の空に浮かんだ満月が、庭園に光を降り注いでいる。
四阿の屋根から斜めに伸びる影が、その下で睦みあうひと組の男女を隠している。
甘い言葉も、楽しげな囁きもなく、ただひたすら、互いを貪るように、口づけと抱擁を交わし合っている。
やがて、男が女の服を緩めようとした。すると、女の手がやんわりとそれを制止しようとする。
――だめ。
だが、男はその怯えたような声に構わず女の服を剥がそうとし始める。
――いけません。私は買われる身です。……それも、代価のうちです。
暗に、男にその代価の支払いができるか?と訊ねる。だが、今の男には、その支払い能力がない。
男の手がぴたりと止まる。
――触れることも叶わないのか?……見る事さえ?
男が悔しそうに呟く。
――私の心は、貴方のものですわ。たとえこの先、誰の子を、何人産む事になろうと。……それではいけませんか?
女の手がそっと男の顔を挟み、自分の方に向けて囁く。
――……それとも、他の男に触れられた女は……汚らわしくて触れない、とでも仰る?
その言葉を耳にして、男が激しく首を振る。
――おれは…っ……あいつとは違う!
硬く結んだ唇の隙間から、押し出されるような言葉がほとばしる。
――畜生っ…こんな事になるなら、あいつに君を会わせたりなどしなければよかった…っ。
女の服の襟を握りしめながら男が悔しそうに呟く。その男の肩を、女が愛おしげに抱きかかえる。
――でも、あの時は他に方法が…
――あったさ。
男が、苦い声で吐き捨てるように言う。
――…でも、あれは、……貴方の未来と引き換えだったでしょう?あの負債を負ったのは、私の家族ですもの。そんな事はさせられません。
女が悲しげに微笑む。
――だけど…っ……君を失うなら同じ事だ。
――同じ、ではありませんわ。私はいなくなってしまう訳ではありませんもの。……貴方があの方より、長生きなさればよろしいのよ。
女の声は、何か暗い決意を込めたもののように聞こえた。
男が、珍しいものでも見るように、女の顔を見つめ返す。
――長生き、なさればいいの。
女が何か言い聞かせるように繰り返し、男の胸に顔をうずめる。
――この四阿の天井には、何が描かれているか、知っているか?
女が天井に目をやる。だが、満月とはいえ、天井絵が見分けられるほどの明るさは無く、かろうじて漆喰の白い地に描かれた灰色の斑と、その上に点々と散る白っぽい斑点が見分けるのがやっとだ。
――……暗くて、見えませんわ。何ですの?
――野薔薇、だ。薔薇の下で見聞きした事は…
――存じております。
女が天井の暗がりに目を凝らして呟く。
――もし…おれが願っている事が叶ったら……罪に問われるだろうか。
男が自分の抱きしめている体から、わずかに顔を背けて呟く。
――考えているだけならば…誰にも咎められる事はありませんわ。…願うだけで罪に問われる、というなら……私はもう、罪に塗れてますわ。それに第一。
女があさっての方向に顔を向ける。闇のかなたのどこかで、男が『あいつ』と呼ぶ者が眠りに就いている、はずだ。
――……そうだな。一番罪深いのは、あいつだ、な。ならば、あいつが罪の報いを速やかに受けるよう、願うとしよう。
男が暗い声で、低く呟く。間もなく人妻になる、と定められた、かつての恋人を腕に抱いて。
訪問コメありがとう御座いました。
差し当たり短編と思える本作を拝読させて頂きました。
本質が読み取れているか自信がないのですが、後ろに女のしたたかさのようなものが感じられる作品ですね。
あえて心理描写を詳細には行わず、状況描写と台詞のみでこれから先に起こるであろう何かを予感させる面白いお話でした。
読み違え、解説など有りましたら、是非、お聞かせ下さい。