寛容の世界 多田富雄
- カテゴリ:人生
- 2010/07/18 01:31:20
最近何かと忙しい。というよりは、時間の使い方が下手なせいでしょう。
貯めてしまった新聞をまとめ読みする日々です。
これは、困ったことにニコのせいでもあるのですが。。
イエ、自分の意志力の弱さでしょうか。。
多田富雄先生が4月にお亡くなりになられていた。迂闊にも知りませんでした。
世界的免疫学者であられる多田富雄先生は、9年前、脳梗塞に倒れ
半身不随となり言葉も失いました。
闘病生活の中で、「生きるとは何か」を深く考え、力の衰えた指先で時間をかけ
ボードを打ち、執筆活動を精力的にされてきました。
水俣病文学者の石牟礼道子さんとの往復書簡『言魂』を読んだきっかけで
多田先生の、他者、弱者へ寄せる温かい共感の想いを知ったのです。
お二人の交わす言葉、深くて重く、優しいのです。
先日、NHK100年インタビュー『多田富雄 寛容のメッセージ』が放映されました。
録画して、さっき、観たところです。
免疫システムは、体内に入り込んだ異物を攻撃して「排除」追い出す事はよく知られています。その際に、自分を確認してから攻撃を開始するのだそうです。
もう一つ、攻撃をせず、包み込み共存を図る行動もするというのです。
それが「寛容」
肝炎を例にとれば、菌が増え過ぎて排除すれば、劇症肝炎を引き起こし
死に至ります。それを避ける為に、菌の攻撃力を弱め、共存の道を選び
慢性化させます。後に癌となる可能性もあるのですが、目前の死は避ける
選択をします。
免疫とは、自分を守るために異物を排除するばかりだと思っていました。
これは精神面でも言えますね。
ところが、わたし達の体の中に、異物と共存を図ろうとするシステムが存在する。
自らを侵しに来た異物を包み込み、内側で共に生きようとするのです。
水俣に侵された一人の女性が言った言葉
「わたしチッソを赦します。差別し、踏みつけにしてきた人を赦す。そうすれば楽になりました。本当に楽になった」
石牟礼さんは、じっとその女性の顔を見続けたそうです。
「心は愛があれば治ります」とも。
水俣病という惨状の中で苦しみ抜いてきた底辺の人々。
憎しみを内側に抱えるよりも、赦し合った方が楽に生きれると。
いや、もう深くって、じんじん胸にきてしまいました。
人は赦すという能力を、免疫システムの中で、既に持っている。
現実世界では非常に困難ですが。。
多田先生は自らの病についてこのように書かれています。
老いて病を得た者には、その意味が分かるだろう。
未来は過去の映った鏡だ。
過去とは未来の記憶に過ぎない。
そして、この宇宙はおのれが引き当てた運命なのだ。
この世界はどうなっていくのでしょう。という問いには
「長い闇の向こう側に希望が見えます。寛容の世界が広がっています」
免疫システムの中に、命の柔軟な強さを見出した
多田富雄先生、最期のメッセージでした。
人間を愛しておられたんですね。
免疫って、まず、自分を確認する作業から始まるんですって^^
そして相手が何かを見定めてから攻撃を開始するか
ダメならば、共存を図るか
非常に柔軟な方法をとる、それも生き延びる為の方法である。
いわば、選択肢を沢山持つということではないか
わたしはそう思うんです。
命は生きようとする。
闘いもあり妥協もあり、共存もある。
でも敗れることをできる限り避けたい。
これがだめでも、あれがある。
緩やかなのものなんですね。
そうやって進化を遂げてきたもの。
人生にも似たところがあると思えてくるんです。
命のシステムは不思議がいっぱいですね^^
神さまは人を助ける為にあるはずなのに、攻撃の手段と理由に使われる
なんともね。特に一神教となるとキツイですね。
地位保全に焦りがあるからでしょうね。
植民地であった国ほど、エネルギーに満ちている昨今ですものね。
それをすべて避けては免疫のない体になりますね。
生きる力を得る為に、雛は苦しみながら殻を破って出てきます。
もしそれがなければ、生きていく力なく、息絶えてしまいます。
人も体内の菌を殺す時体が熱を上げます。
もし、それをすぐに下げようと体を冷やし過ぎてしまう菌は殺せません。
人の免疫。生き物の免疫作用とは
とても大切なものですね。
話がずれてしまってすみません。。。
そうなのよね。問題はそこ。
自分の身に置き換えて考えると非常に厳しい。
大きくなると正に戦争
ボスニア問題やパレスチナ問題。
ボスニアはお互いに殺しあって、どうしもようもなくなって、ようやく停戦になりました。
今の子どもは親族を誰か殺されているので、和解することは難しいらしいのですが
次世代、、孫の世代にならないと、憎しみは消えることがないと言われています。
「赦す」共に被害者であることを確認し合う。
でなければ、前に進めない。
極限的な状況ですもんね。
そんな時に体のシステムには柔軟な姿勢がある。
感情ではなく理論であったりすると、奇妙な納得が生まれる気がします。
「赦し」は難しいよね。
その為に神さまが必要であったのかもしれませんね。
正にその通りで、憎む方が理解しやすいし、
自然の流れであると思います。それにとても理解しやすいんです。
ところが、最底辺で苦しまれ、差別されたきた人の中にこそ
真の美しい言葉を見い出すことが多いのです。
ハンセン病患者、島 比呂志さん
「一人の人間が一生の間にするには余りあるほど厳しい人生でしたが、
小説を書いたり、国を訴えたり、良い人生であったと
今になって気付かされております」
水俣病のある女性といい、怨んで憎んでも当たり前という極限の状況下で
「赦し」て、美しい言葉を遺していかれます。
深い驚きと感動が胸に迫ってくるんです。
そこに至るまでの痛ましいほどの苦しみを思います。
極限の状況になったら、どうするか、
それは分かりません。正直なところです。
でも、巨悪が存在するのも事実。
出会ってない幸運の中で生きています。
しかし、「赦す」という選択もある。
それを胸に刻み、考えておくことで、その時の何かがかわりはしますまいか。
そんなことを思ってみます。
いえいえ、わたしも2年ほど前に新聞の書評欄で知ったのです^^;
闘病生活をされておられるとは存じていましたが
NHKの特集がなければ、お亡くなりなったことすら知らずにいたのです。
免疫システム、知れば知るほど奥の深いもののようです。
文庫本にもなっている?ようです。
石牟礼道子さんとの往復書簡『言魂』で多田富雄先生を知りました。
共に、闘病生活であり、死が目前にあるのですが
お互いを労わり合いながら、綴るのは、次世代に遺す言葉であったのです。
重い内容ではありますが、弱者と他者に寄せる共感に
優しい希望を感じたのです。
言葉というものが、どんどん軽くなって、留まること無く流れて行くように思える
昨今です。
価値ある言葉に出会う事は、喜びでもありますね。
もしも自分の大切な人が誰かに殺されたら、
自分はその相手を赦せるのだろうかと考えるととても難しい...。
それが大きくなると戦争にもつながる。
でも、いつか誰かが赦すことをしないと負の連鎖は止まらないものね。
元々人は異物との共存ができるようになっているなら、本能として行動もできるのかも、、。
そういった究極の選択をすることなく暮らせたら良いと願います。。
とりとめのないことを書いてしまってゴメンね。レス必要ないからね^^
人の世界では、実に様々に、厭な部分があります。
知能が高いとはいえ、美しいばかりではありませんね。
でも、自然界の成り立ちは調和で成り立っています。
要らないものなどないのです。
そうして、ひたすら生を謳歌する。
わたし達の体の中の免疫システムに異物を赦す「寛容」が組み込まれている。
これは希望かもしれません。
非常に厳しく、不寛容な時代ですね。
だからこそ「寛容」の意味を問いかけておられたんですね。
カルカンさんの中にもきっと寛容が息づいています。
老いと病、生きている限り、誰もに待ち受けている現実ですね。
わたしも、母の入院生活を振り返れば、延べ日数、一年以上になります。
命の現場としての病院は、いろんなことが起こりますね。
考えさせられることしきりでした。
確かに生きるとは何か、という問いかけは
これからの長寿社会ではますます重要になってくるでしょうね。
一刻を争う治療の現場、二度と戻らぬ命のやりとり中で
人手不足や経験値など思わぬことが絡んできます。
それを運、不運と呼んでいいのか、複雑な場合も多々ありますね。
憎しみに囚われると、とたんに視野が狭くなってしまいます。
内側へ内側へ沈みん込んでいき、自らを痛めてしまう結果となります。
憎しみは自分を追い詰めて逃がさなくしてしまう一面があります。
逃がしてやる。
その助けが「赦し、寛容」の精神であるのでしょうね。
それが、人間の免疫システムにある。ちょっと頼もしく嬉しいのです。
いやぁ、忘れ去ることが人生だ。
なんて、厭なことは経験として捉え、消化して
最終的には忘れられたら、身軽に生きれるってもんです。
人を憎んでしまうと、自分の人相まで変わってしまい
せっかくの美貌が台無しですもの。ホホ。。(魔女様ですよ。お美しいらしい)
魔女様は4千年を目指しておられるのですね!
ああ、不覚にも、最後の手毬さんのお言葉が、一番ずんときました。
わたしたちは、たくさんの方の愛情に包まれて、生きているんだぁなと思います……。
赦すか恨むか。
実際にこれが分かれる瀬戸際に立つときに、
恨むほうを選択するほうが、そのときの心情として、楽だと思っております。
恨むことに、愛なんて必要ないですもの。
けれども、赦すことを選択できたならば。
きっと、たくさんの人間が、愛に包まれるでしょう。
その決断までには、強い決意と、そして大いなる愛が必要だったと思います。
らぶいずおーる。
愛こそ地球を救う。
まさしく、その通りですね。
わたしは寛容に、愛を受け止め続けているだけですが……。
わたしもいつか、誰かを赦すことができるのだろうか(´・ω・`)。
本当にそうですね。
人は「赦し」を得たくて、信仰というものにすがるのではないか
時々そう思えてなりません。
でも、神さまの違いでまた「赦す」こともできずで
「赦す」ことが人間の一番尊く、困難な作業なのかもしれません。
人は、憎しみを持ちたくない。
しかし、予期せぬ状況が続いた時に、内側に重い物を抱え込んでしまうことがあります。
わかっていても、わかっていても、どうしようのない時もあります。
悩み、疲れ果てた後、他者や状況を変えることはできなくても
自分は変えることができる。そこに行きつくのかもしれません。
もう、最終手段ではありますが^^;
怒りや憎しみを捨てること、「赦す」ことで、気持ちが楽になる。
人は常々、心の動物だと思うところです。
「赦す」ことは生易しいことではありません。
それが出来なが為に、世界中で紛争が絶えることはありませんものね。
人はある程度訓練で何とかなる。
わたしはそう思っているんです。
「赦す」「赦そう」そう思っていたり、口に出す事によって
変わって行くものが、きっとあります^^
諦めは敗北で、赦すは積極的交渉、という感じなのでしょうか。
侵されるか、包み込むか、
これは大きな違いですよね。
でも、赦すって現実にはとても難しいものです。
残された可能性は、少なくはないでしょう^^;わたしはそう思いますが。。
願わばければ希望や目標は生まれず
努力しなければ近づかず、で、千里の道も一歩からでしょうか。
たとえ叶わなくても、やるだけはやってみる
それが生きることなのかもしれません。
免疫を研究するにあたって、
免疫機能が、自分を確認して、異物を排除する、
自分とは何か、という作業の中に哲学を見い出されたようです。
世界的にも有名な免疫学者が、言葉と体の自由を失ったことは
もちろん普通の人もそうですが人生た終わった絶望を味あわれたことでしょう。
その中から、生きる意味を見い出していかれた姿は
胸を打つものがあります。
存じてませんでした。
寛容ね。
なるほど。
免疫機構というものは、なかなかに複雑なのですね。
自分がその域まで達することができるかっていうたら
今は未熟だなあと思います。
未来は過去の映った鏡だ。
過去とは未来の記憶に過ぎない。
この言葉が響きますね・・・
などなど
自然界や動物の行動は
いろいろと教えてくれるで
す
いまは排除ばかりで寛容を
感じないですね^^;
父の長い闘病で、いろんなことが見えて、本当に良い勉強をさせてもらったと思っています。
病気をただ駆逐するだけではなく、人間の自然治癒力を妨げない医療というのが
今は注目されているようですね。
とはいえ、現実の現場は、一刻を争う緊急事態の中
なかなか余裕のある判断は難しいようです。
心の寛容というのは、本当に大切ですね。
恨みのエネルギーは、強大であるだけでなく、凶悪です。
自分自身を苛んでしまう。
許せば楽になるということはあります。
自己防衛本能でしょうか?
私、根に持つ方ではありません。
どんなに涙したことでも、人を恨むような部分は
ある程度時が経てば、綺麗サッパリ忘れてしまっています。
少しは記憶しておいた方が良いようなことも、何の未練も無く綺麗サッパリw
しぶとく長生きできそうですねw
赦すことによって、真の心の平和が戻ると思います。
わかっていても、赦すことは難しいです。
ほんとそうですね。
心の中の憎しみが自分をさらに傷つけるんですね。
免疫が強すぎると、自分の細胞も傷つけてしまうように。。。
本心から赦すってなかなか出来ないですけど(自分)
表面上でも、言葉だけでも「赦す」を使っていこうかなと思います^^ 免役抑制剤は副作用あるしね
と、しみじみ思ってしまいました。
人が生まれて死ぬまでの時間、いったいどの位可能性があるのでしょうかね?
私の残された可能性は、もう少ないのでしょうけど
無限の可能性を持った者に、少しでも関わりたいなぁ・・・と。