サカイタイゾーの真実(2)
- カテゴリ:日記
- 2010/08/14 02:03:47
硫黄島のことはほとんど家族に話さなかったそうだ。
深夜、一人でぽつんと煙草を吸っていたという。
生きて帰りたかった彼は夢見た人生を歩むことを諦めた。
硫黄島帰還兵で御存命の方がおられる。
彼の事を話すと、一人は無言で泣いた。
一人は長い沈黙の後
死んだ人を悪く言いたくないが、わたしはやっぱり許せない。
今なお、遺骨が残っているという硫黄島。
生き残った兵士たちは無残な死に方をした戦友たちを抱えながら生きている。
おお。。我が苦悩よ。静まり落ち着くがよい。
写真の裏に書かれた詩の1節が甦る。
わたしは父の孫のような娘でした。父の晩年に生まれたのです。
若い父は南方の戦線、フィリピンで全滅した部隊の生き残りでした。
父も戦争の事は、わたしが幼すぎたのでしょう。
聞いたことはありません。
父はあの戦争で心を病んでいた部分が確かにありました。
本人の気質もあったのでしょう。
戦後、不幸も重なり、ごく普通の生活さえままならず、哀しい生き方をしました。
観終わった後、何も知らないのだ。わたしも。
複雑な想いに捕らわれました。
戦後65年。
何も語らずに逝ってしまわれる人が多い現実。
今現在、世界中のどこかで若い兵士が傷つきながら闘っています。
昨年ですが「花と兵隊」というドキュメンタリーを観ました。
ビルマ、南方の戦争、かの悪名高きインパール作戦に従軍した兵士
残留してビルマなどで暮らしている老兵の話でした。
そこで語られるあの時の話に、深く重いため息が出ました。
人間が人間でなくなるのです。
ある意味狂気です。
あの辺りは白骨街道と呼ばれ、敗退する日本兵の死体が
延々と続いたと。
今も遺骨収集は行われています。
つい最近、写真月刊誌で観たところです。
まだまだあるんです。物凄い数の兵士たちの遺骨が人知れず
放置されたままなんです。
言葉で読むより、写真で観ると、ああ…でした。
あの時代の教育ですね。
お隣の国、韓国も半日感情で教育しています。
今は情報が自由に行き交い、自分で確かめ考えることも可能ですが
当時、一般の人が情報を得る手段はありませんでした。
国からの命令だと、そうだと思ってしまう人がほとんでであったでしょうね。
職場も一つの国家ですものね。
閉鎖的になると、厄介な問題を抱えることもあります。
とにかく職を失う危険性をはらんでいますから
おかしいと思ってもなかなか行動に移れないケースが大半です。
ささやかに、反対はしなけれど賛成もしない
くらいしかなくて、精神的に消化不良を起こすことになります。
生き方と
いかに食べていくか、
その板挟み。
時代が変わっても、葛藤は違う形でわたしたちに問いかけてきますね。。
サカイタイゾー氏のドキュメントのことは初めて知りました
舅はビルマ戦に行きましたが、エンジニアで通信基地だったせいなのか
すぐ白旗あげて武装放棄して捕虜になったそうです
抵抗した部隊は全部やられたそうです
クリスマスにはイギリス軍だったので、仕官は招待されて生まれて初めて七面鳥を食べたそうです
クリスマスにはいつもその話をされますが
それ以外のことを聞いたことはありません
息子たちに戦争の話を聞かせてもらうよう仕向けたときでも・・
簡単に言葉に出ない思いがあるのだと推察しています
「現状を知らぬ者が上に立った場合従うしか。。」って本当にそうですね
職場とかでもありますよね
大きな流れに抵抗できる人はあまりいないです 私のように普通の人は、自分がつぶれてしまうから
そうなんですね。教育がいかに大切か、生き方を変えていきますものね。
彼は長野の大地主の息子で、お金持ちのお坊ちゃんであったようです。
戦争がなければ、夢見た画家になるべくパリへ渡ったことでしょう。
通信士ゆえ戦況も知りえ、負け戦は目に見えていた。
死ぬがバカバカしく思えたんでしょうね。
生きたかった。
責められぬ想いですが
悲惨な最期を迎えた戦友たちを片時も忘れることはできなかった。
米国の捕虜尋問官が口を揃えて
彼は頭脳明晰だったと言います。
力のあった人だったはず。
罪の意識にさいなまれていたのでしょうか。
煙草の話で、彼の心情が知れて、とても哀しい想いになります。
煙草を吸うことで何度も過去をリプレイしていたんでしょうか。
生き残っても心の傷に悩まされた話を良く聞きます。
仲間を裏切ったという強い罪の意識から逃れることが出来なかったんでしょうね。
当時はみんな若い兵士だった。
究極の選択を迫られる時代でした。
良い悪いは、一概には言い切れませんね。
いろんな意味で競争社会ですね。現代も。
利益ばかりを重視して、環境や人間そのものの精神まで破壊しつつあります。
ある程度の利益は必須ですが、それ以上は必要なのか。
現状を知らぬ者が上に立った場合
従うしか選択肢のない人々は、いつの時代も悲惨な目に遭います。
人はどこまで行けば、無意味な争いをやめるのでしょうか。
そう思ってしまいます。
話せないことがあると思います。
抱えることを煙草を吸うことで当
時の仲間と分かち合い自分を励
ましていたですかね。。。
国からの逆らえない命令で
人と人が生き残るため殺しあう
いろんな競争がある現代ですが
命を掛け合う競争は
選んだ人同士だけで行って
もらいたいですね。。。
幼い頃から、父はどうしてああなんだろう、と思ってきました。
たぶん、ルルちゃんと同じで、わたしが何とかしなくっちゃっと
考えていた節があります^^;
あの時代に生きた人は避けて通れないない
苦難があったことでしょうね。
ある所で、わたしの父もまた、戦後を生きた普遍的な人物像だと言われました。
その時は違和感があったんですね。
記憶を辿って行くと、父にはそんなことが確かにあった。
かなり歳が離れていたし、戦後教育を受けたわたしには
戦争は本当に遠い時代のことだったんです。
それが戦後教育。
他の国はちゃんと歴史が繋がっているんですね。
ドイツに行くと、それを感じました。
父と別れたのは思春期だったから、
わたしの記憶はいつもそこで停止して、大人になれないままでした。
父の事を思い出すと、やはり避けては通れないんだろうなぁ
そう思い始めたのはここ数年です。
解決できるはずの国家間の争いで
無駄に命が失われるのは、本当に悲しいことです。
ルルちゃん、お父さまとお母さまの具合、いかがですか。
今年の夏はことさら暑いものね。
戦地では毎日のように繰り返される目の前の死の恐怖。
生還できても生死を分ける体験をされた方はトラウマに悩まされると聞きます。
言葉で言うと軽々しくて憚るけれど、大変なご苦労をされた方なのね。
手毬ちゃんが戦争の記憶に目を背けず理解しようとするのは、
お父様を理解しようとすることからもきているのかなとね、ふと思いました。
戦争については、悲惨な体験をした国だからこそ同じ過ちは繰り返して欲しくないと願います。
病気や事故で、生きたくても生きられない人も大勢いる中
健康で生きられる人たちが殺しあうのは悔しい。。
渡辺謙さんが演じてましたね。栗林中将。『硫黄島からの手紙』で。
今回のドキュメンタリーをみて、ああ、繋がってるなぁと。それで『散るぞ悲しき』を読みました。
とても魅力的な人物です。
ちなみに福銀ね、同族経営だったでしょう。
ちょっと行ったところに彼らの屋敷があるんだわ。物凄い豪邸だよ。それも駅近。
塀の外から森のように木々が生い茂っているのね。
これは残ったんだなぁ。行員は路頭に迷っただろうにって前を通る度に思ってしまう。
父が亡くなった病院に一番先に着いたのね。
彼の持ち物だったくたびれたショルダーバックの中には
ボロボロになった軍隊手帳と、若い若い戦友たちと撮った写真が挟まれていたの。
わたし達の写真なんかはなかったけどね。
片時も離さなかったんだね。
わたしと父、親子という視点を取り除けば(ここに苦労するわけですが)
一個の人間として哀れが立ちあがってきます。
いずれにしても、悲しみはやり場のないものばかりですが^^;
自分の感情と適度な距離を保ちながら、フェアな視点を忘れないで
考えていきたいなぁとは思っているんです。
まぁ、それより、お体ですワ。。気をつけないとね。
わたしね、漢方を処方してもらってます。
体質改善だけど、かなり調子悪かった時期があったんです。
飲みだして、酷くならなくなったよ。
ちゃんと処方してもらうと、それなりにいいかもしれませんですだ。。
戦争って、ごく普通の感覚が否定される。価値観、倫理観の逆転が起こりますね。
日常の社会では子どもは守られるもので、人を殺してはいけない。
当たり前のことが、逆になる。
一人の個人の中で凄まじい混乱が起きてしまうのは当然でしょうね。
特に身内、子どもには話したがらない人が多いようですね。
人として当たり前のことをしただけなのに、非難される。
一般の人々が真実を見つめなかったせいなのでしょう。
情報統制も敷かれていたし、仕方のない部分はあったでしょうが。。
ドキュメンタリーを上映してくれる映画館が、行ける場所にあるんです。
NHKなども放映してくれますが、連続して見るのはなかなかしんどいものです。
映画館だと、座席に縛りつけられるので、単発で自分の行ける範囲で見るようにしています。
わたしの父はDVでもあったんですね。
暴力を容認する戦争。
イラク帰還兵もパレスチナ帰還兵も、アフリカの少年兵も
同じような、それよりも最悪のケースがあるようです。
映画館で深いため息をつき、トボトボと疲れて帰ってきます。
語れなかった部分こそ、本当は一番、知っておかなければならないことなんでしょうね。
戦時状況などの古いフィルムのやつは、わりと淡々となるんですが
本人が語るだけの内容の方が、かなり胸に堪えます。
お父さまは命がけで立派な行動をとられたんですね。
記憶を呼び起こすことは、追体験をすることですから
とても辛いことなんでしょうね。
四季があってよかったとも思う。。。人間、この季節感に育てられる、花が時期を忘れぬように
私たちも、忘れてはならないものを、どうか忘れずにと。。。
この危機にね、どうか口を開いておくれとも思う。。。戦争に巻き込まれたかもしれない。
でも、個人レベルでも、罪は罪、どうか贖罪、口を開いてくださいと。
体制に歯向かえなかったあなたがたは、弱かったです。
すこし軽くなって、旅立ってください、口を開かねば、同じ罪を犯していますと。
どっかのお馬鹿さんは極論、自らの知識が上だと思うと、人間成長は止まります。
ただ、そうね。。。指揮官たるもの指揮官たる教育と人徳の高さ
これを持ち備えていた人は、いたと思います。
みなが死に絶えて、それでも生き残り(指揮官が死ぬわけにはいかない)報告書を書き上げ
そしてみなを死なせた指揮のまずさを背負って、自決。
これは、そこそこの精神力じゃ出来ない。。。
育ちと教育、それが育つ資質、兼ね備えていたと。
あの、テロのとき、部下を逃がして自分が死んだみずほ銀行でしたっけ?
福銀は、いの一番に上のもんが逃げました。
ほかの美しさに生かせる世の中でなかったこと、これが悲しい。
いい上司になりえた人であったろうと思う。
リーダーであったろうと。
季節が巡るがごとく、また歴史も巡るのであれば、人間は大ばか者です。
見解の相違。
残念です。
重ねていうけど武士道には興味が無いの。
それは個人の自由であるはずでしょう。
栗林中将は敵であった米国から一番の名将と評価されています。
あらゆる資料から、彼が自分の部下を大切に思っていたことが分かります。
死線についていくことを自ら選んだ部下もいました。
当時では珍しい上官であったはずです。
最期の電文は
国の重きつとめ果たし得で、矢玉尽きて散るぞ悲しき。
でした。新聞に発表されたのは悲しきが口惜しと
軍部によって替えられていたんです。「散るぞ悲しき」梯久美子著より
そんな人となりを身近に垣間見ながらも
サカイタイゾーさんは裏切ることを決めたんですね。
生き残る。
そこまでして生きて帰っても
自分の人生を謳歌できなかったわけです。
傷は消える事が無かった。
戦地に行った兵士たちは、後の人生を狂わせてしまうほどの経験をした。
そして、わたしも父もそうであった、ということです。
父は 当時にあるまじき思想の持ち主で 親と行き別れた幼い子どもたちを引き連れてジャングルの中を右往左往 逃げ回ったそうです。 もちろん戦争に協力なんてする気もなく 追手を向けられる始末で 国土兵からも敵扱い・・・。
非難ごうごうの中 終戦を迎え 復員した時待ってた事はなんだったでしょう・・・。世間の白い目です。
私が物心ついた頃 父はすでに還暦を迎えておりました。 学校の宿題で「両親や祖父母から戦争の話を聞く」という・・とりようによっては残酷なテーマが出されても 父は「語るものは何もない・・」と重い口を開きませんでした。
が、クラスメイトの父親が戦地で父と一緒にジャングルを逃げまどった話をしてくれてて・・・
その子の作文で私は事の経緯を知り・・・驚きました。作文の最後に父に向けて 「助けてくれてありがとう」と結ばれてて・・・。
何もないという内容でそれだけなら 大変だったという人の経験っていったい・・未知数ですね。
理解したく無いならそれでも構わない。
軍部がクソだからどうでもいいと言うならそれでも良い。
本当に兵士達の内面や人の内側を語りたいと言うならば
全てを知ろうとして下さい。
でなければ、都合の良い部分しか伝えて無い戦後教育と何ら変りがありませんから・・・・・・・
気分を害されるのは解りますが戦争を語るなら避けては通れない道なので。
本当に可哀想なのは非国民とか言う言葉が平然と使われても疑問に思われない時代を生きた人々。
あなたにとっては山下奉文陸軍大将や山本五十六海軍元帥も悪人としか映らんのでしょうね・・・・・・・・残念です。
わたし武士道には全く興味ないんだわ。。。
アレ、好きじゃないの。
狂気の世界なら尚更、理解せんでもいいわとなります。
わたしは兵士たちが可哀想。
タキさんよりも若かったんだよ。十代だっていた。
硫黄島の指揮官栗林中将は「バンザイ突撃」を許さなかったんです。
兵士たちを愛し、同じ物を食べた彼はせめて甲斐ある死を与えたかった。
実利的に戦い抜き、共に死んでいきました。
兵士たちが泣き事を言うのも許したそうです。
「美学」を無視した。
そのせいで、悲惨な戦いであったにもかかわらず精神に異常をきたした者を
みなかったと米軍は言います。米軍はたくさんいたようです。
当時の軍部なんてクソだから、どうでもいいんだ。
わたしが言いいたのは、
兵士たちの内面です。
人の内側。
生き残った人々も、その後人生、辛い想いを抱いて過ごしたということです。
わたしね、かねがね、政治家は女性、男性半々で行けばどうかと思ってる。
権力者のほとんどが男性、人間の歴史で戦争が無かった時代ってあったのかしら。
そう思うから。
全く新しい価値観の導入が必要。
応戦ばっかりの従来の考え方だと、新しい世紀は超えられない。
まずは環境で人類は滅亡の危機に立つ
これは、軍隊を持つべきだと言った御住職(かなり年上でした)
に噛みついた内容でしたww。
だって、絶対にそう思うんだもん。
戦争、負の遺産は物を言わず世代を超えて被害を継承するけれど
実体は知られないままなんだよね。
生きて捕虜になる位なら死ねと書いてあります。
原文で書くと難解な文面になるので省きますけど・・・・・・・・・・・
武士道で有名な「葉隠れ」の一文の引用で武士道とは死ぬことと見つけたりと・・・・・・・・
葉隠れを全て読めば解る事なのですが当時の軍部が都合の良い解釈した結果が
「日本に生きて帰ってくるな」なんですよね。
日本では玉砕、アメリカでは万歳アタックと言ってたかな・・・・・・・・・・・・
武士道の本来の意味は「泥水すすっても生き残れ。そして全て終わったら死を笑顔で迎える」なんです。
まぁ、コレも理解し難い思考に思えるでしょうな・・・・・・・・・・・・・
武士道とは狂気の世界です。理解出来なくて当然ですから(苦笑
亡くなった祖母が言ってました。「じぃさんは、戦争から帰ってきた時には結核やった。戦死やったら、子供5人を養っていけるお金が国から貰えたのに、病気で帰って来て、治療費と子供にかかるお金で、苦しかった」と。
世に出ない戦争の傷跡は、きっと、もっと、たくさんあるのでしょうね・・・。
ニコのお友だちにフィリピンの方がお二人もいるんです。
遺骨収集ツアーがあり、よく行かれているとお聞きしました。
ある方が、父がいた部隊の文集、日記みたいなものがあり
国立図書館と神戸にしかない原文を百数ページコピーして戴いたものがあるんです。
長い間、複雑な心境で読めませんでしたが
そろそろ拝読しようと思っています。
硫黄島だけではない。
南方と呼ばれた地域にも未だに何柱も迎えに来てくれる人を待っている。
もし、機会がある・・・・・・・・いや、機会を作って知る事が大切だと思います。
時間が無いと言わずにね・・・・・・・・・・・・・・