こども舐めんな
- カテゴリ:小説/詩
- 2010/08/24 23:37:42
きっかけは漫画だったけど、フィクション全般に関してなので、その周辺なら活字が自分の主な居場所だろう思っているので、カテゴリはここで。
藤田和日郎の漫画、『月光条例』の最新十巻のカバーの巻末折返し部分の文章にすこしばかりカチンときた。
『月光条例』はおとぎ話をモチーフにした作品だが、その元にしているのが作者が幼い頃ふれたこども向きダイジェスト版書籍であることについて書いてある。
自分にとっての「おとぎばなし」は、最初に触れ、親に読み聞かせてもらい、愛したその本そのもだったから、ということで、それはいい。
でもさ、それで『原作、各伝承の違和感の冷たかったこと!』って書きようはないんじゃない?
こちとら図書館に巣くっていたもので(いや、あまりたくさんは本を買ってもらえなかったんで、仕方なく)、原典・原作の全訳を読む機会が多かった。
民話や伝承は原型に近い形での厳しさ・容赦のなさをこそ見たかったし、それこそがわたしにとっての「おとぎばなし」だったのだ。
逆の立場だからといって、他者が愛してるモンをdisるなよ~
自分が愛する「おとぎばなし」を描く。それでいいじゃん。
そもそも。
元々、わたしはこどもを対象にした作品で、厳しさや恐ろしさ、残酷さなどを、排除しよう、覆い隠そうとして行われる「配慮」による編集が嫌いだ。
藤田和日郎が作品の原典とした本がどうなのかは知らない。
ただ、こどもに向けてのダイジェストでは、やたらとそのテの「配慮」がある場合が多く、だから手にとることも少ない。
神話や民話や伝承でかかれる厳しさや残酷さの多くは、人生の苦難や立ち向かうべき運命、行為に対する因果応報が、単純化・象徴化されたものだ。
「生きていくのは大変です」「悪いことをすると報いがあります」
シンプルな形で伝えようとする話から「苦難」や「勧善懲悪」を切り離してなにがしたいんだろう?
こどもを守るためと言って、規制をとなえる人がいる。
正直、ゾーニング(発信する側が考え抜いて定めた)は必要だと思う。
世には悲惨と理不尽が満ちている。臭惨極まりない事象を、その準備が出来てない人に見せつければトラウマになる。
ポルノグラフィーはまま在るものだと思っているけど、未熟で知識のない人が、性的ファンタジーを本気にしたらひどい目にあうのは目に見えている。
たからこそ、事実があり、心構えがあり、ときに対応策がある、と教えるべきだろう。
必要なのは知識、対処法、リテラシーだ。
それらのものを教えるが大人の責任だろう。
なんだけど、表現を規制すべしと言っている人のなかには、なぜか、注意が必要だと思える事象そのものから、こどもを隔離しようとする人が多々いる。
性教育に反対するのなんかがその典型。
フィクションの中のアクションシーン(いや、程度ってものもときにあるだろうけど)に因縁をつけたりする。
一点汚れのない場所に未成年を引き離しておけば、健全に育つとでも?
18歳までに性知識を与えるのは危険で、18歳の誕生日になれば何も教えずとも誤ったこともせず、どんな(間違った)情報にふれても何の問題も起きないと?
対象を汚いことのように扱って遠ざけておけば安全になるわけじゃない。
ふざけちゃいけない、性とか暴力とか悲惨な事象に、なんの準備もなく接触すれば傷つくのは当のこどもたちだ。
ただ隠せばいい、みたいな発言をしている人たちは、本当はこどものことなんか全然考えていない、と思うよ。
(その事実に気付いていない可能性もあるけど)
むしろ、無知なままでいて、自分たちに都合良く騙されてほしいとでも考えてるのではと感じてしまう。
ただ見せてはいけない、知らせてはいけない、は逆にこどもを莫迦にしている。
「おとぎばなし」の文法で語られる苦難や暴力まで規制するのは、こどもの判断能力、理性を軽く見ている、舐めている……と思う。
理性と良識(とやはり考え方か……)による部分が大きいので判断や線引きが難しいとは思うけど。
信じて、ちゃんと伝えようよ。
童話が「ほんとうは怖い」等々言われていると、
「いや、労働はキツいし、死はすぐそこにあるし、童話は基本怖いでしょ?」
というよな人間ばかりやたら周囲にいましたw
でも、原典といわれる話でも、版が改まるごとにどちらかといえばマイルドに修正されていますが。
やはり、こどもを完全無菌状態に置いておくのは違いますよね。
もっとも、とんでもない残酷画像なんかにもアクセスできてしまう時代なので配慮も必要でしょうが……
これ、わが子には大ウケでした。
バイ菌にはある程度触れて抵抗力つけておかないと、いかんのですよねぇ~。
逆に、再話・翻案する人を「この人」と選んで、その名前を前面に出したこども向き全集もありました。
ダイジェストであることや誰が手掛けたかが明確でしたし、菊地秀行が吸血鬼ドラキュラを担当だったり、藤本ひとみが三銃士が担当したり、何故依頼が行ったのかわかる人選でした。
ああいう形だとなるほどな、と思ってしまいます。
実際『源氏物語』とかはほぼ現代語訳(=訳者の判断入りまくり、時に創作まじりもある)で読んでますし。
編者の主観がはいってると明示されていて、そこに、原作にある都合の悪い部分を隠そうという意志がなければ不快には思わない、ということかもしれません。
『源氏物語』等は、こども向きに(潔癖な検閲入れて)翻案したら、内容がわからなくなってしまいますよねw
「男の子がほしかったのに 女の子が生まれて 青色の浴衣など 着せられて 男の子のように育てられていた」
というお話のことなんだけど
十代になってからのある日の朝 ふとんを持って母親に見せに来た。
それを見た母親は 「今日は 学校を休みなさい」 と言って 休ませた。
ここが まったく意味がわからなかったの。病気でもないし。
こども心に なぜなんだろう どうしてなんだろう と 疑問がひっかかってた。
10年以上たってから 突然 思い出して あっそういうことなんだ と 疑問が晴れたことある。
それは まさに そういったフィルターを通して書き直されたものばかりだったんでしょうね。
そういうのばかりで 読んだつもりになると 作者や作品に ただしい評価をしないまま大人になるのもよくないな
わたしは 同時期に 父の読んでたものも こっそり読んでたけど・・・・ モーパッサン ゾラ
なんとなく ちがうのわかってたのかな
『月光条例』のカバー折返しの文章は、悪意なく筆がすべったのだろう文章に、わたしが陰険に絡んでいるだけですw
漫画家さんも、自分が最初に触れた愛するバージョンへの風当たりが強くてカチンときたのでしょう。
けど最近、教育的配慮で小奇麗に整えられてしまった話を結構見るので、こちらも大人げなくムッとしてしまいまして。
こどもたちへ対応には、関与したくないというより、「思う通りにしたい」のではないでしょうか。
自分の子は自分の考える安全な管理を、よその子とは関係を持たない。
幼くても、血がつながっていても、意志を持ち他者の意のままにならないのが、こどもで人間だと思うのですけど、ね。
山鳥さん
取捨選択を見守る尺度というか加減というかが難しいなぁ、と今回の文章を書きつつ思ったり。
良識と常識だろ? と普通に考えるけど、わたしが考えるラインは、
規制をとなえる人からすると「許せない!」だろうし。
ある作家さんが「フィクションは予防接種みたいなもの」と言っていました。
物語の中の苦労や辛酸を体験することで、大変な現実への耐性がわずかなりともつくのじゃないか、と。
そういう意味で、衝撃を受けるようなすべてから幼い人を遠ざけようとするのは間違いでは、と思います。
ディズニーのアニメでも(白雪姫とか)
ジブリのアニメでも(千と千尋とか)
それこそアニメのポケモンとか
子どもが持っている感性とか防衛本能で、
怖くてみられないとか
映像から逃げたくなる
という状態になるのをみたことがあります
それでも、本人たちの成長と共に
消化して取り込んで
楽しめるようになっていくのをみると
やみくもに、規制をかけるよりも
本人たちの消化速度に応じて
自分たちで取捨選択していくのを見守る
というスタイルで、いいんではないのかな?
と思いますがね
グリム童話や日本の昔話の厳しさは
昔では当たり前だった生活習慣が基礎になっているので
日常生活で動物を〆たりするという習慣のなくなった
現代だから、なじめないというあたりも多い気はしますが・・・
どこまでが本人の言葉かわかりませんけどねぇ。
規制については、外での遊びや喧嘩なんかもそうですね。
要するに、自分が関与しなくても育つ仕組みがほしいんでしょうね。
核家族化といったライフスタイルの変化によって、
地域で育てるという、古き良きコミュニティが崩壊してる証拠ですね。
ものの良し悪しってのは、その両方を知らないとわからないのに・・・。