登場人物は、(Against crop)
- カテゴリ:小説/詩
- 2009/02/28 19:20:16
GABANと言っても、宇宙刑事の方ではない。
コショウだ。
コショウと言っても、小性ではないし、ましてや湖沼でもない。
粗挽き胡椒だ。
故障は僕の脳味噌か。
ここまで余談である。
スーパーで小袋に入った粗挽きコショウを買ってきた。
すでに、ウチにはコショウの瓶があるからだ。
古い瓶に新しい中身を入れようという魂胆である。
さて、ここでささやかな抵抗を感じた。
実害もなければ、逆に、有効だと褒められても良い話なのだが、かすかに精神の抵抗を受ける問題。
先に述べたとおり、コショウはギャバン。
仔細に述べれば「あらびきブラックペッパー」。
そして、まだ述べていないのが瓶の銘柄。
これが、S&B。
細部に言及すると、「ブラックペッパー(あらびき)」である。
ヱスビーの瓶にギャバンのコショウを詰める。
この行為は、なにか屈辱的なものではないか。
さて、これは、ヱスビーとギャバン、どちらの屈辱なのか。
本質を見抜かなければ、この命題に答える事は難しい。
そうだ、重要なのは本質だ。
瓶は作られたときから、コショウをいれるために作られた。
コショウは食品。
本質は「食べる」に行き着くだろう。
ならば、瓶よりも、コショウこそ主役にふさわしい。
すると、屈辱を受けるのはヱスビーの瓶。
さらに追求すれば、瓶の内面にわずかに付着し、残存していた、ヱスビーのコショウか。
せっかく、ついこの前まで「我が風味こそ購入者に最上の悦楽をもたらす」と自負していたのに、追加として瓶に投入されたのが、ギャバン。
これほどの屈辱は在り得ないのではないか。
よりもよって、このような屈辱をもたらした人物は、何を考えているのか。
そうだ!
二人は顔を見合わせた。
ヱスビーもギャバンも、目の前の人物に目を奪われて、購入者を忘れていた。
この問題は、二人だけの問題ではない。
当事者は三人だったのだ!
本質は一面で捉えられるものではない、視点を変えれば、違った本質が見える事も在る。
そうなのだ、そもそも、購入者が、銘柄の違う組み合わせを選んだのである。
その行為が本質なのだ。
屈辱を受けたのは二人。
そして、屈辱を与えたのが一人。
——おしまいーー
ここから、本当の余談。
この文は、事実に基づいて書いてある。
誰かがこれを読む頃には、コショウが瓶に入っているだろう。
それはともかく、もう一つの事実。
僕は、この十日間ほど、森博嗣ばかり読んでいた。
「人形式モナリザ」「黒猫の三角」「ZOKU」「ゾラ・一撃・さようなら」と読み終えたところだ。
つまり、この記事は読書感想文のようなものである。
森博嗣が名古屋出身で、50歳くらいか。
僕が愛知県岡崎市で育って、40。
どうも、なにかが共通する。
森博嗣が書いていることと、僕が普段思っていることが、けっこう似ているようです。
ですから、僕が書いてみたいことを、僕よりはるかに上手に、正確に書いてあるものを読んでいる感じです。
コショウの詰め替えの話は、いつも僕が考えていることの一つですが、森博嗣の書き方を意識すると、少し面白くなったようです。
ちょっと納得かもです。
犀川先生のは読んでましたが、それ以降は作品に波があって遠ざかってました。
書かれてる中では『人形式モナリザ』しか読んでませんね。;;
うちのコショウミル、中身の入れ替えができないタイプでした。
メーカーの良識を疑います。><;