Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」18


 無酸素登攀では七二〇〇㍍が、人間の限界点。長時間は居れない。時間と共に肺に水が溜まる。少しでも氷を溶かして飲まねばならない。血液が濃くなり、肺水腫になれば死の危機さえあった。いずれにせよ、俺は5日間で登頂を極めなければならなかった。
 高所順応ができていても、ほとんど無酸素登攀に近い状況では脳がまず、正常な判断を下せなくなる。空気が希薄な事と、風と極度の気温低下。そして気圧の低さ。それらの悪条件を耐え抜くにも限度がある。
 タイムリミットを過ぎれば、俺は迷わず下降しなければならない。
 突風の無駄な一日がうらめしかった。
 眠れる時には少しでもビバークして眠り、登る時には一気に距離を詰めていく。
 たった千㍍が、地上での三百キロメートル歩くのと同じくらいの疲労が蓄積される

 俺はうとうとしはじめて、頭の中に詩が浮かぶ。
 桜が消えて
 天蓋のフタが取れた
 泣けば泣くほど
 轍(わだち)に嵌まり(は)
 やがて底なし沼に
 水没しぬる
 春の修羅を踏み台に
 夏の嵐が怒りくるも
 梅雨の如き邪魔者め
 汝(なれ)は砂塵に巻かれればよし
 四季などいらぬ
 我は巨人なり
 我が足は
 マグマだまりまで届きぬ
 たとえ一万度の熱なりと
 我が足は
 溶解せず

 俺は気が付くと、広い大海原にいた。
 ギラつく太陽、寒い海。
 遠くに島が見える。
 南海のようだが、なぜだか寒い。
 俺は島に向かって漕ぎ出した。
 なぜだか小船に乗っている。
 櫓をこぐ腕も、なぜだかやたらと重い。
 あの島に、ふと、あいつがいるような気がした。
 穏やかな海だ。
 海鳥も飛んでおらず、ベタ凪の中を俺は必死に漕ぐ。
 みるみる島が近付いてくる。
 俺はなぜこんなことをしているのか。
 でも不思議に思わない。

 「やあ」
 あいつがいた。そして声をかけてきた。
 「お前生きていたのか」
 と俺が舟から言うと 「この通り、ピンピンしてるぜ」
 彼の後ろから伝説のサーファー”ニック”が姿を現す。
 「ヘイ、ユー、グッド」
 彼は陽気に笑顔をふりまいて、手招きをする。
 「もうじき、この島を呑みこんでしまうほどのビッグウエーブがくるぜ。カヌーから降りろよ。潮がどんどん引いてく。カヌーもまた沖に引っ張られるぜ」
 俺はあいつの手を握って、島に上陸した。
 「なんだ顔が真っ黒だな、どこで日焼けしたんだい」
 「ああ、まあ山でね。ところでこの島はなんていうんだい。いやに寒いけど」
 「ハワイさ」
 ウエットスーツを着た二人は、こともなげに言う。
 空からチラチラと、白いものが舞い落ちてくる。フワっとしたそれは雪だった。
 「ハワイに雪か。珍しいこともあるもんだ」
 俺は全く不思議に思わない。矛盾という思考は今の俺には湧いてこない。
 「お前のボードもあるんだぜ。そんな物騒な物はすててしまえよ」

 今まで、櫓だと思っていたのは、メタルシャフトのピッケルだった。
 「俺はなんでこんな物を持っているんだ」
 しかしこれを捨てると、俺は命を失うような気がした。
 「大切な物だから、これだけは捨てられない」
 「暑くないのか、そんなに着こんで」

 俺は自分の体を見る。なぜか登山服にアイゼンの付いた靴。やたらと、櫓を漕ぐ腕が重かったわけだ。
 その他の、登山に必要な装備品は、身に付けてはいない。必然性があるから着ている。ただそれだけのこと。
 「その波は、遥かアリューシャン列島から寄せてくるんだぜ、何ヶ月もかけて」
 波はどんどん引いていく。そのうち砂地に囲まれて、島の廻りを囲む珊瑚礁まで露出する。

 砂浜に、グラスファイバー製のサーフボードが3本突き立っている。
 「あと一時間だ。見てみろよ、太陽がもうま上にきているよ」




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.