それでどうしろ?…と
- カテゴリ:人生
- 2010/10/24 23:57:31
本屋で見かける。「太宰治ADHD説」
僕は、題名を見るだけで、手に取る事もないし、内容は全く知らない。
だから、書評は書かない。
ただ、一つ思うのは、太宰治が「注意欠陥・多動性障害」だとして、読み手や、世の中の人が、そのことにどんな意味を感じるべきかという事。
単純に、太宰治が好きな人なら、この本で、太宰がどんな人だったか思いを巡らすだろう。
ADHDを知ろうという人は、太宰治を一つの入り口、あるいは例として、知識を得るだろう。
ただ、それでも、僕はなんとなく虚しい。
僕自身の事でいうと、本などにある自己診断表、神経症や、うつ病、アスペルガー、アダルトチルドレンなどの試験を答えてみると、高い割合で、回答が症状に該当する。
医者へ行った事はないが、たぶん、ちゃんと診断を受ければ、なにか適当な病名をつけてくれる事は間違いない。
じゃあ、病名が決まったらどうなるかというと、何も変わらないだろう。
自分が変わる事もないし、社会的に変わる事もない。
まあ、人によっては差別的だったりするので、損はあるか?
逆に、変に親切にしてくれる人もいるかもしれない。得なようではあるが、それも面倒だ。
仮に、抗うつ剤など飲んだところで、それで自分が変わる訳ではない。
ここは重要。
薬で自分が変わる訳ではない。
お酒を飲んだら興奮するとか、それと同じような現象。自分が変わる訳ではない。
ただ、お酒の席で、人と気心が知れるとか、仲良くなるという事は在って、同じように、薬で好転する部分は在るかもしれない。
それをきっかけに、自分が変わるのかもしれない。
まあ、そうした事はともかく、本の事である。
世の中に、いろいろ本が在って、最近は行政がうつ病の啓蒙を行っていて、知識が広まっているはず。
楽観的に見れば、少しは知識が一般化しているはずなのだが…
僕が見る限り、ADHDもアダルトチルドレンも、うつ病も、名前よ知っていれば良いほうだ。日々、人と接する態度として、病気を考慮する人なんか居ないのである。
それに、もっと問題なのは、病気であって病気ではないという面。
脳を調べて、明らかに神経が未発達といった場合は「病気」なのだろうが、さほど異常が見られないのに、問題がある、といった場合、ようするに「性格」の範疇である。
どこからどこまでが正常で、どこから異常になるのか、という問題がある。
そこらに歩いている人全員、何らかの症状を持っているのが当然で、「普通」とも言える。
それで、まあ、僕の考えは、「だからなんなんだろう…」というところで終わってしまうのである。
本人も、他人から見ても、普通に思える人でも、こまごま指摘すれば、病名を付けられるだろうし、逆に、病気と診断されている人でも、普通に暮らせるはず。
でも、なぜか、世の中には物事を大げさに言うのが好きな人がいて、大げさに言ってしまうから、普通の事が普通に感じられなくなる事が在る。
例えば、有名人がガンを公表すると、やたらと大騒ぎするテレビや雑誌がある。
実際には、人間は病死することがほとんどで、何もないのにある日、眠ったまま目が覚めないなんていう死に方のほうが、極めて珍しい。
心臓病でも、脳卒中でも、人間の死の中では、ごく一般的な事。
普通の事を、普通の事として受け入れられない事のほうが、人間にとって不幸なはず。
どうも、最近の、神経症などの本を見ると、決して悪い事が書いてある訳ではないが、社会として、何かが違うと感じる。
悲観するご両親が子どもの未来に明るい兆しを見ることにより 世間の無理解や教育の壁などを乗り越える勇気を見いだでるのでは?(例えばエジソンなど)と思えてなりません。