お前は目の前に海があったらどうする
- カテゴリ:日記
- 2010/11/17 21:03:41
かなりお久しぶりです
今回は記事の墓場から発見した私の昔の記事を発掘したので乗せときます
たぶんこれ、初期の文でしかも書きかけの奴なんで、削ってもないから長いし、文が荒れてます
記事の内容は、映画「ぼくらの七日間戦争」などを手掛けた菅原監督の取材記事です
「小説が文章で物語を語るなら、映画は絵で語るものだ」と菅原浩志監督は語る。
言葉で語る映画は作らない。誰が見てもストーリーが理解できる映画、何年たっても古くならない映画を目指して作り続ける。
監督が映画を自主的に見始めたのは中学から。
高校時代は、放送局に所属し映像作製に打ち込む。学校が終わると必ず札幌の映画館に行き、土日は三、四本ハシゴして見た。当時、映画館の椅子は固かったのでお尻に座りダコができたという。年間三00本以上は見た。
当時、映画を見るには担任の先生から映画一本につき生徒手帳に一つ判子をもらう規制があった。毎日職員室に殷を貰うため通ったが、成績があまり芳しくなかったのでよく怒られたと振り返る。
字幕版を見るとき、字幕映画は字幕を隠しながら見た。当時、字幕は台詞一つにつき十三語二行しか表示されなかった。「台詞は字幕以上に喋っているのに聞き取れない。それが嫌で英語の勉強は一生懸命勉強した。」と話す。
監督がある日、寝ようと思ってオールナイトの映画館に入ったが、逆に映画によってたたき起こされてしまった。その映画は「デルス・ウザーラ」(1975年のソ連・日本の合作映画で監督は黒澤明)。「寝ようとしていた人間を起こして見せるなんて凄い映画だ。面白くない映画は集中出来ない。でも、いい映画は物語に引き込んでくれるから集中する。映画にはそういう力がある」と言う。
高校時代は大好きな映画を見られる仕事に就きたいと思っていただけで、映画監督にはなろうとは思ってなかった。
高校卒業後、映画を勉強するため清水の舞台から三回飛び降りる思いで単身アメリカに渡った。当時三つあった映画が学べる大学のうちの一つ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校芸術学部映画テレビ学科へ入学。しかし、まず英語でつまずく。アメリカではさっぱり英語が通じず、満足に買い物も出来ず、大好きな映画のストリーさえ理解できずに苦労する。そんな時、映像を見ているだけでストーリーが理解できる映画に出会う。それが「カッコウの巣の上で」(1975年のアメリカ映画。監督はミロスフォーマン)。言葉がわからなくても物語が伝わってくる作りに感銘を受け、作る側へと惹かれていった。
この映画の監督はヨーロッパ人だったので英語がカタコトでしか話せなかった。そのため映像で伝える映画になったという。これをきっかけに作る側に惹かれるようになる。