「期待」とは身勝手なもの
- カテゴリ:日記
- 2010/11/27 23:42:32
PS3のグランツーリスモ5で遊んでいる。
さすがにPS3のビッグタイトルだけあって、大勢の人が発売当日から遊んでいるらしい。
だから、見る気が無くても、ブログに感想を書く人や、ツイートする人の言葉が入ってくる。
面白いというか、人間という生き物の習性というか、「こういうものかな」という気分になる。
たくさんの楽しく遊んでいる人たちの中に、たまに、酷評する人が現れる。
グラフィックの処理が悪いとか、開発期間が長いのに未完成だとか、いろいろな無いようだが、
一言にすれば、「できがわるい」という評価だ。
僕個人は、GT5は良くできていて、楽しいと感じている。
…でもね、…じつはね、
酷評する人が書いていることも、わからなくはないのである。
グラフィックが全体として緻密なのに、ところどころ、バカみたいに、雑な部分があったり、処理の方法に疑問があったりする。
ゲーム操作が細分化し過ぎて、流れがつかめない部分があったりもする。
それで、この部分をどう評価するか、が考えどころなのだ。
僕としては、作っている人たちの作業量が膨大だと感じているし、具体的にはわからないけれど、作る難しさも察せられるので、「ここまで作り込んだらかなりのものだ」と評価する。
かと言って、作り手の作業や、会社の規模や、金額規模や、そうしたものは客には関係ないわけで、不出来な部分が目につけば、評価も下がるだろうとも思う。
ただ、他に一つ、僕には思い当たる節がある。
ゲーム発売前の、プロモーションムービーが凄いのだ。
良くできていて、とてもかっこいい。
そのムービーを見て、どのくらいの出来映えか想像して、その後に、実際のゲームを見ると、ある程度の人たちは、がっかりするだろうと想像できる。
実際のゲームと、プロモーションムービーでは、ムービーの方が少しグラフィックが良い。
ムービーは、試作中の画面なので、できることとできないことがある。
そこで興味深いのは、試作の方が「一面としては限界まで高品質になる場合がある」こと。
簡単に説明すると、「あちらを立てればこちらが立たず」のようなできごと。
例えば、初期のムービーではコース脇に観客はいないし、ゲーム中の情報表示も無い。しかし、ゲームでは多くの情報を表示する。
この場合、ゲーム機本体の処理能力として、試作中は自動車の走行だけ処理しているが、完成したゲームは、たくさんの仕事がある。
試作中の一部の処理だけで限界を極めるのは良いが、逆に、ゲーム開発中に、簡略化される可能性もあるわけだ。
プロモーションムービーは、もちろん商売として凄く良く見せるものなので、それだけでも見栄えが良いのだが、それ以外に、ゲーム開発の機微のようなところで、ムービーよりゲームの方が見栄えが悪くなっているような気がする。
なんだか、話しがあらぬ方向へ走ってしまった。
僕が言いたかったのは、どうやら、GT5を酷評する人は、事前に、とんでもなくすばらしい出来映えを期待していたのではないかと感じたこと。
反動で、必要以上に評価が下がってしまっているようだ。
ただ、それでも、酷評するほどでもないと思うので、悪口を口にしてしまうと言うのは、その人のわがままのようである。
人が持っている「期待」と言う感情は、人の「身勝手」とつながっているものなのだろう。