生きていくこと。と平和。
- カテゴリ:日記
- 2010/12/06 23:47:50
長崎で暮らしているせいか平和や戦争についてよく考える。
原爆でなくなった方や、声高に中国や北朝鮮を非難する人たちとの
異なる点は何か。共通点は何か。
歴史の中で、僕たち人類は石器時代から戦争を続けてきたのは確かだし
いつも平和を望んでいたのも本当だ。
国境、民族、政治的主張、経済ブロック、学校、クラス、兄弟。
境界で戦争や争いは発生する。境界の差が大きくなったときに
それは勃発する。
この数十年間、人口増加はしたが、戦争による死者の数は二次大戦後は
減っている。ということは戦争による死亡率は激減しているのも事実。
これは、平和への道につながっているのか、大きな戦争の前の溜めなのか。
インターネットや経済は価値観やコミニュケーションを活発にして
境界の壁を低くしてきた。一方で、民族間や国の奥底にある
感情、欲望、怒りや恐れなどもすぐに見れるようになってしまった。
一つ一つの行動がどちらの道に行くのか、平和に向かう選択肢はどちらなのか。
最後まで考えていきたい。
*マイケルサンデルさんの
「アメリカの大統領は、過去の原爆被害について謝罪する必要があるのか?」
という問いはなかなか刺激的で深く考えさせられた。
では、ゆっくりと、のんびりと。
そして、善というものも相対的。
そして、すべては相対的。
絶対ということはないんだよ。
家族を守ろうとして、家になだれ込む兵士を殺しまくるのは?平和が続いて人口増加し環境が狂い、破滅的な生態系の破壊が起きたら?
後者はSFでなくて、生物種の異常繁殖によりペルム紀末に大量絶滅が起きた。
でも、その大量絶滅、大量の命の欠損、死があって我々がいる。
死は生と結びついている。
この辺りは仏教的かも。
僕は人間の価値観が好きじゃないのかもね。
絶対悪は、おそらく人を殺そうとする心の働きそのものなのではないでしょうか?
ユネスコ憲章にこうあります。確か、戦争をやめるには人の中に平和の砦を作らなければならない、という内容だった様な気がします。
死刑、死刑はいけませんが…あくまで戦う対象は、己の中の人を殺す働きそのものであり、他人の中の人を殺す働きそのものなのではないでしょうか。
しかし…後者に対しては同情はするべきです。悪を犯すのが必ずしも悪いことではありません。しかし、それでも悪なのです。
可哀想です、あくをさせられている少年兵が可哀想です。彼は殺したくもないし、殺されたくもないんじゃないでしょうか?ですから悪といっても、同情すべきものと、そうでないものがあると思うのです。僕はそう思うのです。
洗脳された少年兵は。
むずいな。
というのをどこかで聞いたことがありますが、
(もちろんいい方向へ)
わたしはそう信じています。
でなきゃ、やってられませーん(^^)