人間の持つ弱さにたいする理解と強さに対する信頼と
- カテゴリ:日記
- 2010/12/14 16:24:51
先日、言葉によって、という 詩のようなブログのような雑文を書きました。
言葉による内面の傷と その再生について書いたものですが
その内容と相反するようで 実は矛盾しない事を もう少し書こうと思いました。
不用意な、あるいは 意図的な 言葉によってうける傷、というものがある一方
人間は どうしたって 傷ついたり傷つけられたりしあうものである
という現実です。
言葉の刺に無神経な人や、自分の言葉にあおられて
どんどん 毒を吐きつつある人がいる一方で、
傷つく、傷つける、傷つけられる、ということに
あまりにも 敏感にすぎ、脆弱になってしまう風潮も
今の日本にはあるように感じます。
気を遣いすぎ、気を回しすぎ、人との距離をはかりすぎ
「空気をよみ」すぎ・・・
疲れ果ててしまう
そういう私も10代終わりから20代半ばにかけて、
病的なほどに 自分の言葉で人を傷つけることを 恐れた時期がありました。
自己嫌悪の末、この世からいなくなりたい、と思ったことは
何度もありますが、私の記憶や痕跡が残るのでは 不完全だ、
それだって さらに 人への迷惑になる
いっそ 存在した痕跡さえのこせず 最初からなかったことにしてください、
私の存在を消し去ってください、
なんて 無理を承知で 絶望的な祈りをしていたことも、ありました。
遠い昔のことですが。
もしも、このブログを読んでいる人に
かつての私と同じような そんな思いをしている人がいれば・・・
傷つくこと、傷つけること、傷つけられることを
恐れないでください
と 伝えたいです。
もちろん、この場合、悪意や故意に 傷つけることを推奨しているのではありません。
最善の注意を払っても、人と人とが ぶつかりあうとき、
多少の傷は あって当然だということです。
よく使いこんだ器が、たくさんの細かい傷があって
でも、それゆえに 味わいが出るように
また、私達が幼い頃、立って歩くのを覚え、
走るのを覚えたときには、転んだり、怪我をしたりして
泣きながら 覚えたように、
もしも、転ばないように、目の前から 障害物を全部取り払ってもらってたら
立ち上がることを覚えられなかっただろうし
擦り傷やかすり傷は そのときは 泣くほど痛くても
だんだん治ったように
柏木哲夫先生が 著書に書いておられた言葉だったと思いますが
私達は、人間のもつ弱さへの理解と共に、
同じ人間のもつ、強さへの期待も 見失ってはならない
(正確には 表現は 違うかもしれません。手元に出典のもとがないので)
知らない間に 傷つけ合うことを恐れるあまりに
自分をすり減らさずに、
むしろ、迷惑をかけあっても、傷つけ合っても
人とはそうしたものだ、と心得て
ゆるしあう、認めあう、受け入れあう
(どうしても 受け入れがたい場合は
距離をおく ことも 必要ですが)
そんな しなやかで 丈夫な関係を 育てていくのが
いいのではないか
そう 思います。
あんまり あれこれありすぎると 痛覚も鈍るよね
だいじょうぶ? ゆっくりリフレッシュできたら、いいんだけど
なんか今はもう、痛覚が鈍くなってきた気がします。。。
やはり20代の時、青年たちの集まりで、ディベートを体験したこと、あるんですが
ディベートそのものを わかっていない人がいるグループでは
感情的になって 泣き出す人がいた、って聞いて
何、やってんだ〜〜 と 脱力したこと、あります^^;
違う意見を言われると、自分の全てを否定されたように 勘違いする人も 多いですね
分けて考えられないの。
そうじゃなくて、 あなたの意見のここは、わたしの考えとは違うわ、っていう
それだけで それ以上でも以下でもないのに。
ほんとね、コミュニケーション、対話、その実践が
小さい時からもっと なされないとね
コミュニケーションのトレーニング 足らないと思う
^^ いいのよ。^^
…今は、これだけ。