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前漢(西漢)・儒教国家へその後

B.C.33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位。
成帝は政治を省みず、側近を伴って市井で放蕩に耽る好色な皇帝だった。
実際の政治を行ったのが皇太后である王政君の兄弟の王鳳らであった。
王太后は自らの近親を次々と列侯に封じ、その中の一人に王莽が含まれていた。
王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進
ら儒者官僚たちの激しい反発を招く。
その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を貫き、儒者を含め多くの支持を獲得するようになっていた。
B.C.7年、突然の成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位する。
これにより哀帝の外戚が王朝内で台頭、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられたが、王朝内部からは王莽復帰の嘆願が相次いだ。

哀帝は意に背いた大臣を殺害し、寵臣の董賢を大司馬に昇進させるなど強引な手法で主導権を握ろうとする一方で、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を画策し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、B.C.1年に病弱であった哀帝は後継者を残さないままに崩御した。
崩御すると王太后と王莽は哀帝より皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪し、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を即位させることに成功した。

政権を掌握した王莽は絶大な人望を背景に禅譲への準備に着手。
具体的には『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築し、また遠国からの進貢といった瑞祥とされる事柄を演出し、王莽こそが聖人であると周りに印象付けようとした。
また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ぜられると同時に宰衡という称号を名乗り、九錫を授けられ、臣下として最高の地位に登った。
5年、平帝が崩御(平帝が王莽のことを恨んでいると分かったため、王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。
劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年に禅譲を受けた王莽は正式に皇帝に即位、新朝を建てたことで漢は滅亡した。

王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、豪族たちの強い反発を受けて、その政策は失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国に叛乱が多発した。その戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。

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