レッツゴーターキン
- カテゴリ:ペット/動物
- 2011/02/03 16:54:17
1992年の天皇賞・秋などを制し“名脇役”として活躍したレッツゴーターキン(牡24歳、父ターゴワイス、母ダイナターキン)が1月30日、繋養先の北海道幕別町・サンライズステイブルで心不全のため死亡した。
同馬は87年に北海道・早来の社台ファームで生まれ、現役時代は栗東・橋口厩舎に所属。91年GIII小倉大賞典、GIII中京記念を制し、92年の天皇賞・秋では11番人気ながら大外強襲を決めてGI初制覇を果たした。93年のGII阪神大賞典5着を最後に引退。通算33戦7勝。
■橋口調教師「本当にタフな馬でした。厩舎を開業して初めてGIを勝ってくれたし、私にとって忘れられない1頭です」
との記事を見ました。
1992年はミホノブルボンのダービーがあり
2着のライスシャワーが秋の菊花賞で三冠を阻止しましたね
ちょうどこのダービーから
馬券投票しだしたんですが
最初から2万7千円も買ってはずしたんですw
そのあと宝塚記念で
メジロパーマーが逃げ切り
初馬券をゲットし夏の福島開催で開眼したんですw
パーマーのウィキペディアを見ると
しかし以降は再び精彩を欠き始め、10月に出走した京都大賞典では最下位に惨敗した。これを受けて改めて障害転向が決定し、11月に障害競走デビューを迎えた。この初戦は圧倒的な1番人気に応えて6馬身差で勝利、次走でも2着となったが、競走後には全身傷だらけで戻ってくるなど飛越が下手であった。このため人馬共に事故が起きかねないという判断で、この2戦のみで障害に見切りを付け、休養に入った[2]。
翌年春に復帰すると、2戦を消化して出走した新潟大賞典で重賞2勝目を挙げる。次走の宝塚記念では、メジロマックイーンの骨折休養により有力馬不在となった中でも9番人気という低評価だった。しかし1番人気のカミノクレッセに3馬身差を付けて逃げ切り、GI初制覇を果たした。鞍上を務めた山田泰誠にとっても、これがデビュー4年目でのGI初優勝となった。他方、この優勝は馬主さえ予想しておらず、マックイーンが出走不可能となった時点で牧場からの応援観戦予定が取り消しとなっていたため、通常は関係者が一堂に整列して行う記念撮影等も、非常に簡素なものになった[注 2]。
秋は前年最下位の京都大賞典から始動し、2番人気に支持されたが9着と敗れる。続く天皇賞(秋)も、前半1000mを57秒5というハイペースで逃げた結果、ブービーと惨敗。「宝塚記念優勝はフロック」という評価を付され、有馬記念に出走した。春の骨折から復帰した前年のクラシック二冠馬トウカイテイオー、この年の菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワー等が揃う中、メジロパーマーは春のグランプリを制しながら16頭立て15番人気という評価だった。
スタートが切られると、序盤から単騎逃げでレースを先導、途中上がってきたダイタクヘリオスと共に後続に10数馬身の差を付ける大逃げ打ち、第4コーナー手前で失速したヘリオスを尻目に直線で独走。最後は追い込んできたレガシーワールドをハナ差凌ぎきり、史上4頭目の春秋グランプリ連覇を果たした。馬連配当3万1550円は、有馬記念史上最高の払戻額となった。この年のGI競走2勝が評価され、翌1月には最優秀5歳以上牡馬と最優秀父内国産馬に選出された。
なお、山田泰誠が主戦であり続けた理由の一つに「独特の手首の返しがこの馬に合っている」との話もある。
(以上、引用)
とあり、当時は知らなかったこと(飛越が下手)もわかり
何か新鮮です
ターキンに投票した記憶はないですが
元同僚が
万馬券を自慢していたのを懐かしく思いますw
思い出とともに名馬たちは
ずっと生き続けてますよw
ちょうどこの頃は土日も仕事していてあまり競馬観戦をしていなかったかも。
ライスの骨折はものすごく印象に残っているので、この後ぐらいから熱心に見たのでしょう。
私の初馬券はトウカイテイオーの引退レースです。
テイオーが来るとは思っていなかったけど、感動しました。