言葉に振り回されないで
- カテゴリ:日記
- 2011/03/26 22:14:14
地震以後、ニュースの内容も変化し続けているのだが、ここ数日は、「数字」が多い。
これが、困ったことに、言葉だけが散乱して、意味がつかめない。
「暫定規制値」「暫定基準」「摂取制限」「指針」
さらにそれを「何倍」とか言ってしまう。
特に「何倍」は、言葉や数字が具体的なだけに、解った気になるが、実際には意味が無い。
報道を受け取る側の資質が問われる。
「解った気」になって満足するのが、一番怖い。
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そもそも、行政機関が発表する数字は、「行政基準」であって、医療や科学ではなくて、「行政」だ。
簡単な例えを想像してみる。
行政は、川の水位を観測して、警報や避難指示を出す。
この、行政の行動を判断する基準値が、行政基準のひとつ。
川によって条件が違うし、行政の条件も違う。
土木として、堤防の強度で、水位何メートルまでは耐えるだろうという予測があるし、設計者の想定値もある。
気象条件の、大雨の時に周辺地域で雨量何ミリ、何時間で水位が何センチ上がる。といった経験則。
市役所職員が、緊急召集して、何分で最低限の人員が集まる。
そうした条件をつきあわせて、川の水位計が何メートルを超えたら警報を出す、といった「行政基準値」を決める。
ここで重要なのは、これら基準は「水害が起きる前の準備」のために決まっているもので、他の災害でも、人災でも、「準備」としての「余裕」が考えられていること。
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現在問題になっている多くの数字も、本質的に、医療や科学でなく、行政の「基準値」である。
農作物の安全性など、医者や学者の言うことを参考にして、そこから、行政が「実際の危機、災害が起こる前に、対策を行うため」の「行動の基準にする数値」。
これを裏返して考えると、数量としての精度は低い。
これは、悪い意味の「低い」ではない。
具体的な数量としては、医者や学者が示した数量が具体的で精度が高く、そこから、「余裕」をみるので「あいまい」で「誤差」が増えるが、安全側への見積もった値が、行政基準ということである。
だから、
ニュースで「基準値の何倍」というのは、科学的、数学的にみると、意味が無い。
誤差を承知で安全側へ見積もった値に、どんな数字を掛けても、誤差は増えるばかり。
数値としてはどうでもいい。
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行政基準値をみる場合、数値そのものではなく「行政としてはどんな行動をするか」それが問題。
そしてもし、行政が行動できないのなら、行政基準値も意味が無くなる。
ならば市民は、医療、科学の数値を参考にするべきだ。
でも
市民の中には「科学的な数値が素人に解るか」と怒る人がいて、こうなると、行政と市民の堂々巡り。
ってか、今現在の報道が、どうどうめぐりになっている。
行政自体が、何を言っているか意味が分からなくなっているし、
報道は、考えて解説する能力が無いし、
市民は、他の誰かのせいだと責任を転嫁して、自分は被害者の殻に閉じこもる。
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何も信じられない、というのは、他人が悪いのではなく、自分の、信じられるものを見分ける能力が足りないのである。
何も信じない人が一番厄介だ。
信じていない人に向かって「やれ」と言っている自分自身が、矛盾していることに気がつかない人たち。
信じられないのなら、信じられる人を捜す。
なにかやってほしいなら、できる人に頼む。
自分でできることは、自分でやる。
まあ、こう書いている僕自身が、耳の痛い話なんだな。
最後は動物のカンってことかな・・・