前漢(西漢)・郡国制
- カテゴリ:日記
- 2011/04/01 14:24:48
高祖時代には戦争で手柄を挙げた功臣たちを封建し、諸侯王とした。
しかし高祖は皇太子があまりにひ弱に思えたので、
異姓の諸侯王たちを粛清し、親族たちを諸侯王に付け、劉氏政権の安定を図った。
文帝時代になると諸侯王たちは劉氏の朝廷に対し反抗的な姿勢が目立ち、
諸侯王の権力・領土が大きくなりすぎ中央政権の安定の観点からは問題が出てきた。
この頃の諸侯国は中央と同じ様な自らの朝廷を持ち、
丞相・御史大夫など中央朝廷と同じ名前の官がいた。
このうち、丞相のみは中央からの派遣だが、その他の官は全て諸侯王が任命した。
基本的に諸侯国の内政は諸侯王によってなされ、中央も口出し出来なかった。
諸侯国の中でも最も大きな呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、
民衆に税をかける必要がない程に富んでいた。
当時の諸侯国は半独立国であり、中央朝廷の目の上のたんこぶだった。
そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、
これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。
乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げ、中央が派遣する官僚に任せ、
諸侯王は領地からの税を受け取るだけの存在へと変え、諸侯王の力は大幅に削られた。
しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったので、
B.C.127年諸侯王が領地を子弟に与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。
これは元々賈誼が考えた案に基づき、武帝期に主父偃の献策によって実現、
この令により諸侯王の領地は代を重ねるにつれ細分化されたために、
諸侯王が中央政権を揺るがす心配はなくなった。
これらの政策によりほぼ郡県制と変わりはなくなった。