泣ける? 其の一『ケータイ小説的。』
- カテゴリ:小説/詩
- 2009/04/22 00:12:11
ここのところ「泣ける話」がもてはやされている、らしい。
感動的だとか、心洗われる、とか。
でも「泣いてしまう話」はイコール感動的なのか?
人が「感動!」と言ってる話に白々することが多い臍曲がりなので、少々反発しながら考えていた。
そして「泣ける話」の筆頭として、よく携帯小説があげられる。
とりあえず代表例・有名作として名前が出る作品は、書店で手に取った事はあるが、読み続けられなかった。
つまらなくって。
携帯小説という媒体が問題なわけではない、筈だ。
画面が小さい制約はあるにせよ、適したジャンルや方法もあるだろう。
書簡体小説があるのだからメール体小説だってありえるだろう。
簡潔な文体のハードボイルドなんかあうかもしれない。
面白くないのはどうしてか、考えればぶっちゃけ、安易だからだろう。
評論『ケータイ小説的。』(速見健朗/原書房)に面白い指摘がある。
携帯小説が程度の低い物として認知されている、いわば被差別文学だというのだ。
この辺について書こうと思ったのだが、つらつら考えた結果「ケータイ小説的なもの」への反発が逆に募った。
語彙が少ない、文章が下手、等で軽く扱われる、読書慣れしていない層が疎外されている、ということはあるかもしれない。
しかしつたなくても、心情あふれる文章は存在する。
(最近なら、TV番組に小学生が「なくなった玩具を探して欲しい」と依頼していた手紙の「本気」に、玩具も本望だろうとシミジミした)
現在の携帯小説の問題は、文章慣れしてない、小説慣れしていない部分では、多分ない。
「リアル」という物の感じ方、関係性への視線の問題だ。
携帯小説の読者は、話の内容が実際にあった事(とされている)かどうかを重要視する、と評論『ケータイ小説的。』は言う。
評論では携帯小説を投稿文化の影響下にあるコミュニケーションから生まれた作品群と定義し、そのモチーフとなる幾多の不幸は、以前からヤンキー少女的世界に存在していた「不幸自慢」文化の延長の「ファンタジー」だと指摘している。
モチーフ来歴の提示としては面白い。
しかし、読者はこのファンタスティック――というか、いい加減な「リアル」に現実を感じることができるのだろうか?
現実であると保証されることで読者はリアルと受け取る。
「事実」を謳うことで、ファンにとって疑うことはいけない・ひどいこととなる。
その共犯関係でこの「リアル」は出来上がっている。
そこから外れた人間は、書店で数冊めくっただけでも、医学的、法的、その他もろもろ突っ込まずにはいられない。
フィクションを事実とすることで問題も起こっている。
映画化された携帯小説の評価ページで、作中にある病気や事件等を経験をした人が現実はもっと厳しいと批判・抗議したところ、それに対してファンから罵倒が書き込まれていた。
酷い、の一語につきた。
そういう深刻だが別(現実)レベルの問題以前に、小説として、読んでいる間不審の停止をさせようと気遣いさえしないのは、書き手としての不実だろう。
事実だとすることで不審や批判を棚上げされた物語は、整合性や理解してもらうことへの配慮を欠いている。
内容的にも、主役達のそれ以外の人物への扱いがひどいが、書き手がそれについて自覚している様子もない。
外部がない、「自分達」以外は書き割り扱いされている。
評論は携帯等のツールによって恋愛も「つながること」のみが重要視され、中身はさほど意味を持たない形にコミュニケーションが変化しているのではないか、と言う。
これがコミュニケーション能力の劣化ではなく、ルールの変化への適応だとも。
そうだろうか?
この評論でもっとも興味深かったのは、登場するヒロインの彼氏がデートDV加害者だという指摘だった。
『恋空』の彼氏の病死は暴力的な恋人の死を願ったことの、物語的な読み換えではないかとも分析されていた。
そんな「つながること」が重要な関係が息苦しいなら、そこから外れればいい、辛さと楽しさは背中合わせ、選択するのはつねに自分だ。
道具を使うのは人間で、振り回されるのは使い手の責任だろう。
易きに流れてそれを「適応」と呼び、その中でズルズル傷つけあうのをドラマとして提示されても、感情移入しようがない。
そんな状況であっても、自覚的に、心情を丁寧に描く姿勢があるならまた別だろうが、話は表面を上すべる。
それが怠惰でなくて何だろう。
考える程に、携帯小説の良さを語るのに困って、人が死ぬ=悲しい=泣ける=感動、と無理に論立てているように思えてきてしまった。
ではお前には、涙が出る感動する話はないのか——と問われそうだが、それについては以下次項、という事で。
まとまりなく、長くなってしまったが、それでもどうにも言葉足らず。
無念。
これぞ、という作品の推薦、ありがとうございます!
一般の小説と違う形式であるのは当然だと思っています(でないと画面的につらいだろうし)
ただ、手に取った作品では、上手い下手以前に、書き様に「この程度でいいやろ」感がただよっていた気がします。
フィクションが現実と違っていることが問題なのではなく、その「違い」があまりに大きいと
作品として成立しなくなる場合があると思います。
すくなくとも、それでシラケたという読者が多数いるわけですし。
フィクションで、書き込むのが不必要・不適切な物事なら、なぜストーリー上に置くのか疑問です。
その出来事が必要で登場するなら、一般程度の知識の者から総突っ込みされ、その受け容れづらいほどつらい思いをした人をさらに傷つけてまで、その出来事を大したことでないように扱うのが不思議です。
ぼかした表現とあきらかな間違い、というのも違うと思いますし。
携帯小説には携帯小説の「書き方」というものがあって、
独特の1つの独立した文学じゃないかって思ってる。
だから、書籍と比較すると読みにくい人、読みやすい人、でてくるよね。
PCでも携帯小説って読めるので・・・(PC用URLが実在する)そっちで見てみては?w
「モバゲー」も、「iらんど」も、PCで見れるはず。。。
ところで・・・「現実はもっと厳しい」という点は・・・いろいろな点で問題にされるけれど
実態をそのまま描いてしまえば、一般の人は受け入れられないことが多いわけで。
過度な表現はノンフィクションやドキュメンタリーでなければ控えるのが普通のことです。
(出版関係の仕事をしてる人からそういう話を聞かされたことある。b)
頭が固い自覚があるので、話題になった新しい本は瀬踏みくらいはしようと思ってはいます。
ゲームブックでも『火吹き山の魔法使い』が邦訳されてすぐ手にとって
「本に求めてるのはこういうことじゃない〜」と叫んだ憶えが。
携帯小説は書店に並んだ時点で手に取ったけど、なんというか、もう駄目でした。
こぶさん
ドラマ『太陽に吠えろ』でもそんな話を聞きますよね。
作中で人が死ぬのが悪いのではなく、安易に、手段として死なせるのはさすがにどうかと。
ながつきさん
携帯の画面で読む気力はないので、書籍化された物を手にとって、ウンザリしたのですが。
小説としてというより、物語・お話として、あんまりじゃないかと。
泰山娘娘さん
そう、人が為すことこそがもっとも心を動かす、と思います。
大切な人を失えば、悲しいのは当たり前で。
死に感動するわけではなく、そこに至る行動や、心の動きが人に働きかけるのだと思うけどなぁ。
感動は、登場人物が死ぬ場面より、何かを成就させた(恋愛であれなんであれ)
いわゆるハッピーエンドな場面ですることの方が多いですねぇ。
どなただったか忘れてしまいましたが、
ケータイ小説を小説として批判するのは間違っているという趣旨の発言をされていて、
読んだこともないくせに、自分の納得できる意見に飛びついてしまいましたー。
思い当たる節も・・・^^;
というのは、例えば知人の漫画家が、連載漫画で掲載が長くなり、停滞してくると、
『次は誰を殺そうかな~』と思うといってました。実際盛り上げるのにてっとり早い
方法は身近な人間の死ですよね。それだけでドラマティックになるものですから。
それ自体が悪いとは思いません。架空の物語の中の、大切な登場人物の死を
通して、読者が自分の大切な人の事を思い、自分の事にして感動し、疑似体験
するのは悪い事ではないですが、作り手が安易に読者の感動を得る手段として
そういうパターン化したエピソードを提供するというのが、なんとも情けない気分で
すよね。
ニコッとのブログ小説には、面白いものがかなりあると思いますww
テレビなどの媒体で報道されている内容だけで
なんとなく、手に取ることあるかな?という内容のものと思っておりました。
いや、携帯小説より、毎月大量に発行されている
ここのnifty広場の@nifty書店でダウンロードできる洋物恋愛小説のほうが、
ハッピーエンドを欲しているときに読むかもしれない?と思う。