シゲじい様のおもいで。
- カテゴリ:人生
- 2011/05/27 19:55:37
私の母方の祖父、シゲじい様が亡くなりました。
享年90歳。数年間の寝たきりの末、老衰でした。
悲しいはずのお葬式ですが、ご家族は一同に
ほっとした印象を持っております。
行きのバスに曾孫に当たる4歳のMokhaちゃん
シゲじいさんの遺影の隣に座ると、
「ジィジと一緒に行こうね~」と明るく言い、車中を
笑わせたのが印象に残ります。
シゲじいさんは漁師と農家の二足のわらじで財を成し、
ウチの母上を育て上げた苦労人でもありました。
戦争で南方に遠征し、死地をくぐり抜けた人でもあります。
子供の頃、夏休みの宿題で、戦争のインタビューをしようという
題材のとき、もっとも経験豊富だと聞いて、取材しましたが、
ついには答えてくれませんでした。
(ウチのじい様は、出征せず内地だったので面白くなかった)
その後、シゲじいの金婚式の折だったか、ぼんやり
南方の事について語り出しました。
「なかなか、人は殺せないもんだ。
敵兵と5mの距離でライフル撃ちあって、一回も
当たらないんだ。
そうやってるうちに、お互い弾が尽きて、逃げかえって
来たんだ。」
色んな生きざまがあるもんだが、亡くなった人に
恥じることの無いよう、頑張っていこうと思った一日だった。
戦争と一言では語れないことが多すぎますね。
私たちは経験していないから、本当のところは
分かりませんが、聞いたこと、感じたことを
伝えることは出来ます。
5メートル先に自分を殺そうとする者がいる場面に対峙しないといけない恐怖、
人に対して引き金を引く恐怖、子供にはとても話せなかったのでしょうね・・・。
優しいお爺様だったんですね。
ご冥福をお祈りいたします。
殺せなかった、が正解でしょうね。
実際、私もそんな場面に出くわしたら、
同じような感じかもしれません。
言葉は思いを十分に伝えませんが、思いは言葉の中に十分
乗せることができるのだなと、シゲじい様の話を聞いているときに
思いました。
照れ屋で、口数が少ないからこそ強い思いがでてくるんだなぁと。
満州も大変だったのでしょう。シゲじい様も
つねづね、「俺は飲めるもの、食えるものは食ったぞ」と言っていました。
あとから聞くと、浸みてきます。
語る言葉が無かったのも、平和の願いのようにも感じます。
先祖、というのは大変なものなんですね。
今の私たちがその尊さに近づけるのか?
日々の努力を怠らないようにしなければ。
こんな時だからそう思います。
まさに、最前線の一等兵、よく言えば古株の古参兵、
悪く言えば、運の悪い兵隊だったんでしょう。
帰ってこれたのも奇跡に近いとまで言ってました。
戦争の事を家に帰ってもほとんどしなかったと聞きました。
本当につらい経験だったのでしょう。
私にはこうしてブログに書くことぐらいしか出来ませんが。
こうして、経験が語り継がれることが供養かなと、
私の家は仏教徒ですが、本質的には私は無神教です。
でも、宗教の役割を軽んじてもいません。
いろいろな思い、これこそが人間らしいものと思います。
ただ、一方だけではなく、いろいろ見て聴けるような人間なれたらなぁと。
やはり、思い出話をするのが一番だと思います。
人間は動物として子孫を残し、人間として経験や思い出を
残すと私は勝手に思っているからです。
その思いは、聞いた人のどこかに欠片として残り、
故人が生き続けると思います。
それをずっと人は続けてきたのではないでしょうか。
ご冥福をお祈り致します。
やっぱり兵糧が尽きたのが一番悲惨だったと語っておりました。
それと どんな形であれ、平和が一番だといつも言っておりましたね。
遺影も若い時のものなんですよね、それから ばあちゃんが 一人で、
親父とおばさんを育てあげたんだと。戦前は東京だったけど、疎開してきたらしい。
そんな戦火をくぐりぬけて、両親がいて、我々が生まれてきているわけですから、
やっぱり、平凡だけど すごいことなんですね。
開戦のときに20歳、終戦が24歳ということになりますね。
まさに、兵隊・軍人として最前線で戦われたのでしょう。
このような方が亡くなっていかれるということは、
あの戦争も歴史上の単なる1つの出来事になってしまうのでしょうね。