Nicotto Town



父と母たち


わたしには母が二人いる。

育ててくれた母を母だと思ってずっと生きることにした。
生んでくれた母は、記憶も持たない幼いわたしを置いていった。
そのいきさつがどうであったかは、今もってよく分からない。

当時、父は母と結婚していた。その前後なのかどうなのか不明だが
生母とも付き合いがあったようだ。

2年先に兄が生まれ、次にわたしとなると
父との仲は長く続いたと憶測される。

父は扶養費や生活費のたぐいを一切渡さない、そんな男だった。
二人の女は、幼い子供を二人を父のもとに置いて逃げようという話が
まとまったらしい。

とにかく生母の状況は着る物もなく、最悪だったと母から聞いた。
自分の着物を与えて逃がしたのだと言う。

顛末は母が残り、婚外子であった兄とわたしを育てることになった。
母は若い頃、結核を患い子どもができにくい体質だったようだ。

父はそれでも変わらなかった。

思い出すのは殴られて青くなった痣を隠すように
俯き加減に歩いている母の姿だった。

わたしが学校から帰ると、僅かしかない母の服をハサミで切り刻んでいる
父の姿を見たこともあった。

どなり声と罵声。
そんな日ばかりではなかったはずだが
まず出てくるのはそればかり。

母の結婚生活は不幸の連続であったろう。

ある時、何で結婚したん。と訊いてみた。

わたしがちゃんとしてあげる、って思ったんよ。
と言った。

父は弱い男だ。
母性本能をくすぐるタイプであったのだろう。
それに生母も惹かれたのだろうか。

昔はあんなじゃなかったのよ。
お金もあったし。
とも付け加えた。

いい時もあったんだ。
わたしの知らない遠い昔に。

一緒に暮らせないほど荒れてきた父を置いて
わたしたちは家を出た。

父は独りで亡くなった。

家族だけの葬儀をした。
一番声をあげて泣いたのは母だった。
わたしと兄は泣けなかった。

後で母の従兄が話してくれた。
亡くなった晩、母が電話で、葬儀に行きたくないと言い張ったそうだ。
それはだめだ、行きなさいと諭したんだよ、と。

葬儀のあと、母がぽつりと言った。

父が暮らしていた公団住宅の一室は、荒れていたそうだ。
それを見て、悪い事をしたと思ったのよ。と。。

自業自得だよ。
とわたしは答えた。

父も母も、親に溺愛されて育った。
お金があった時は、上手く行ったのだろう。
しかし目の前にある困難を乗り切る力を
二人は持ち得ることができなかった。

そう理解した。

その後、母も辛かったのだろう。
兄嫁にも傍若無人だし、我儘も目立った。

ねぇ、わたしたちほど不幸だったことはないね。
あんな思いをして。
と父のことを悪く言いだした。

わたしも父の死後、母には見せなかったが
辛い思いを引き摺っていた。

ある程度我慢したが、耐えかねて
「夫婦と子どもは違うのだ。親は選べないけれど
結婚は自ら選んだことでしょう。
夫婦はお互いに影響し合うものだし
責任もある。悲しみは同じじゃないのよ。
自分の悲しみと責任は自分で引き受けなくてどうする」
と強く言い放ってしまった。

母はそれ以来
父の悪口をわたしに言わなくなった。

生母はわたしが小学校4年生辺りで亡くなった。
その知らせを聞くと
父は咆哮する如くに泣いた。

あまりに酷く、近所迷惑にも思えた。
何よりも無性に腹が立っていた。

わたしには生母の記憶がないので、悲しむことすらできない。
そんな風にしたのは、あなたたちだ。

「男だったらそんなに泣くな」
父に向かって怒鳴った。

父は目をグワッと見開いて
わたしに詰め寄ってきた。

わたしもギッと仁王立ちになって睨み返した。
しばらく睨みあったあと
父は仏壇の前に正座をして
ぶるぶる震え出した。

愛はあったんだ。
何処かでホッとした。

その晩、わたしも泣こうと試みたが
だめだった。

生母は6人子どもを産んだ。
わたしは4番目。
まして、ふれあった記憶すら残っていない。
生母にしても優先順位は低いな。
と、冷静に分析してしまう。

まぁいい。もういい。と思った。

母も老いた。
ブツブツ言いながらも元気だ。

時折無意識に残酷な事を言う。
わたしの中に生母の姿を見ているのかもしれない。
まぁ、イイかと流す。

訪問医療の看護師さんに
ニコニコ笑いながら話していた。

ええ、そこにね、もう半世紀以上になりますかね。
夫と暮らしていたことがあります。
懐かしいですワ

DVの夫の姿は微塵も想像できなかったろう。

みんなの間に愛はあった。
それは確かだと思う。

それでも、こうなってしまう。
愛がない関係で始まればどうなるのだろう。

愛があっても幸せになるとは限らない。
貫くにも覚悟が必要だ。

そんなことを学んだ気がする。


父へ 赦してあげましょう。
生母へ、覚えておきましょう。
母へ 育ててくれてありがとう。

まぁ、この辺りに落ちつくでしょう。
それでよいか。。と

人は生きている限り、不本意だが傷つけあうことは
避けがたいと思っている。

理想したものからどんどん遠ざかっていくこともあるだろう。

母と父の結婚生活は悲惨なものだったが
始まりに愛があれば
そこに戻り、懐かしむことができるかもしれない。

母を見てそう感じる。

だって愛していたんだから
仕方ないでしょう。
と、苦笑いして納得できるかもしれない。

ささやかな救いは残されているのだ。

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2011/06/10 14:03
招き猫さん★コメントありがとうございます。

父の涙は生母に対しての愛ですよ。父なりに生母を
愛していたんだと知った瞬間でした。

体だけの関係ではなく、そこに愛があったということです。

わたしの事を、父は愛していなかったとは思っていませんよ。
ただね、優先順位が低かったのは事実でしょう。

父はわたしを本気で殴ったことは一度もないの。
殴らせない気力もある子だったの。
決して負けないの。
わたしが正しいと分かっていたのでしょう。

上に書いた時期は、養母が家出をしていてね
生母が亡くなったという情報をわたしに教えたんです。

わたしは子どもでした。当時。

二人の母の真ん中に父がいる。
男と女の事情です。

親たちはね、わたしに泣ける場を与えようとは
しなかったの。

大事なのは、自分の中の愛でしょうね。
ドラマの場合もそうですが、子どもは本能的に親を愛するものです。

歪んだ愛であればね、相手に影響を与えます。
子どもが、どんなに優しくても、同じようなことをされ続ければ
傷を受け続け、やがて歪みが芽生えてくるのです。
愛を見つけようとするが為にね。

招きさんは今、大人になったから親の人生を見つめて
自分なりの愛を選択できるんです。

親は捨てきれません。
わたしはこうとりましょう。

今は捨てたことにし、考えないで先送りにしなさい。
大人になれば解ってくることがある。その時にちゃんと
考えればよい。と

招きさん。わたしは父を愛しているのです。
父を助けたいと思っていました。

とても勇気のある賢い子どもでした。
そのわたしを立ちすくませたのは
男と女の生々しさなのです。

本人たちもそれで傷つき、悩み、苦しんだのでしょう。
それは大人になれば良く解ることです。

でもね、それを子どもの頃に見てしまったら
乗り越えて、受け入れ、そこから愛に辿りつくまで
とても胆力のいる作業を強いられます。

言いたかったのはね
愛があっても、悲惨になる。

大人になっての選択で、男と女としてのね
自分を律することを失えば、子どもが深く傷つくのです。

その愚かさがたまらなく辛いのです。
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2011/06/10 04:09
まぁね、しょうもないゴールデン枠のドラマなんだけども。
そんなのの中にもですよ、すげー台詞だなってのを見付けましたわ。

母親から捨てられた小学生がいた。
母の面影を垣間見せては、子供から金を毟り取ろうとする母。
そんな母の真意を見た小学生の娘は、ただ泣きじゃくるだけだった。
一部始終を見ていた、小学校の女教師。
子供は教師に言う
「私は捨てられたんだ」
そして教師が言い返す。
「それは違うわ、あなたがお母さんを捨てたのよ。」
「子供は親を選ぶ権利は無いけど、しょうも無い親を捨てる権利はあるのよ。」

それでもですよ、その中に全く愛は無かったのか?って思います。
無いって思い込んでいるって事もあるんじゃないかと。
つまりですよ、長く生きている間に、その小さく存在した「愛」を突きつけられる事があるんじゃないかなって。
それがさ、黒猫さんのお父様の涙なんじゃないかと。

普段だったら手を上げるケースだけど、上げなかったんですもんね。
黒猫さんからみたら、ほんの些細な、しかもいびつな形の「愛」なんだろうけど。
でも、どんなに小さくても、いびつでも、紛れも無いでしょ、「愛」だもん。
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2011/06/09 00:30
honeyさん★コメントありがとうございます。

文鳥も変わっていましたか^^;文鳥の変人いえ、変鳥ぶりは
とっても気になりますw

親戚がおられると心配されてましたものね。

看取るという仕事は、言葉には尽くせない大変さがあったろうと
思っています。でも、看取ることができて良かったとも。

ワンコがね、1年闘病後、17歳でわたしの腕の中で逝きました。
もう昔になってしまったけれど、
わたしのことが大好きだった彼を、ちゃんと抱きとめてあげられたのだと
時が経つほどに、ホッとするのです。

幸せや不幸せは、隣り合わせにあるものかもしれませんね。
どちらも本当で、少しだけ心の余裕で見えるものがある
ということでしょうか。

お父様の冒険であったのかもしれませんね。
何も話せなくなった感じは、何となく分かる気がします。

相次いで亡くなられたと以前お聞きしたので
仲の良いご夫婦であったのでしょうね。

違うところから見つめて、少し探してみたら
心の中に幸せは隠れているものかもしれませんね^^
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2011/06/08 20:04
子どもの頃はいじめのターゲットとなることはあっても、いつも、ということではなかったし、家に帰ると居場所があって、普通に恵まれていたと思います。普通以上だったかも。ただ、家族が全員変わり者でしたが……(^_^; 飼っていた文鳥を含めて。

十代の終わりに神経を病みますが、その数年後、父が病に倒れてから、歯車はどんどん狂い始めます。

父は今回の地震と津波で壊滅した地方都市の出身で、みんなからさんざん可愛がられて育ち、東京に出てきて美大を2つも出るという贅沢さ。才能があったのではなく、油彩では食えないのでデザイン科に鞍替えしたのです。

そんなに大きくもない会社ですが、病に倒れるまでそこに勤めていました。勤め上げればもう少しよい待遇も待っていたかもしれないのですが……

若い頃から酒飲みで、小心者で十二指腸潰瘍をずっと患っていました。総務課に配属されたのですが、仕事ができるタイプではなく、ムードメーカーだったようです。母に仕事の相談をしたりしていたらしいので(^_^; あそこの会社の幾ばくかは母が動かしていたことになります(^_^;(^_^;

あるとき父が珍しくも旅行に行ってもいいか、と母にお伺いをたてました。母は、そんなの自分で決めて、いつからいつまで旅行に行くからとだけ言ってくれればいい、と答えました。

子どもだったので分かりませんでしたが、父は浮気旅行の諾否を母に委ねていたのでした(;・∀・)

一泊二日で熱海かどこか、あの辺に出掛けていき、翌日早朝に帰宅しました。母は、もっとゆっくりしてくればいいのに、と呆れたように言いました。おみやげを買ってきたのですが、よりによってその総本店が、うちのすぐ近所、歩いて数分のところにあったのです。誤魔化したのか?

母としては、「浮気?したいならしてみたら?」みたいな感じだったのかもしれません。

そして勘ですが、たぶん父は振られたのです。愉快だけど見てくれのいい人ではなかったし、みんなといるときは楽しいけど一対一になると、たぶん沈黙してしまう人だったのではないかと思っています。

黒猫手毬さんのお父様とは違い、最晩年を除き、終始恵まれすぎた人だったのだろうと思います。家も祖父に買って貰ったのです。

わたしも本当はとても恵まれているような気がしています、最近。
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2011/06/07 23:06
アッシュさん★コメントありがとうございます。

人生って思いの外、早く行き過ぎるものですね。。

だから辛い時期も、振り返れる時がくると
信じています。

今は辛い時期ですものね。景気も低迷だし。。
疲れ過ぎると、違う考えが働かなくなるものです。。
どうぞ、愚痴を言いたくなったら
来てくださいね。

どこか下の方のブログにでも書いてくだされば
いいですよ。それだけでも心が楽になれば、なんとか
乗り切っていけるかもしれませんものね。

ゆっくりと休んでくださいね。。
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2011/06/07 22:36
いろいろな人生があると、いつも考えさせられます。
一度しかない人生ってのは、ホンマに儚い。
やり直しきかないし、予備もない。
不公平が当たり前。
辛く悲しいことがたくさんで、嬉しい楽しいことはスパイス程度。
こんな世って、神も仏もないのではと。
で、宗教に救いを求めるヒトが、後を絶たないのですね。
ああ
またわけわからんことをwww
ごめんあそばせw
ちょっと最近、脳ミソが疲れてるもんで。
早く寝なきゃー
ぐー
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2011/06/07 18:38
西の魔女さん★コメントありがとうございます。

魔女様はファザコンですね♪
これは困りましたねw
お父様より、深く愛してくれる男性は存在しませんからねw

心から慈しんでくれた存在は
生きてゆく上での大きな力になりますね。

愛って不思議です。
何事もバランスだと知るのは、そこそこになってから。

愛し方も愛され方も
人それぞれなのでしょうが
一番根底にあるのは、自分を愛すること
甘やかしではなくて、自分にベストを尽くすことを諦めない
幸せを諦めない気持ちが
周囲をも救いだせる力を呼び寄せるのかもしれませんね。

ただ、時々人生は過酷です。
立ちすくんでしまうけれど
愛したり愛された記憶は、ずっと人を支え続けてくれると思います。
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2011/06/07 18:33
ゆみさん★コメントありがとうございます。

子どもの頃は、分からないことは、下手に結論を
出さないで先送りしてきた気がします。

それで父が亡くなった時、大挙して考えて
かなり落ち込みました。
でも、それができる環境であったのだなぁと思います。

悲しみも傷も、実は生活が安定しているからこそ
立ち向かえるとも言えます。

忙しければ、目の前のことに振り回されて
時だけが過ぎて、学ぶ機会を失して老いてしまうなんてことも。
たまにね、見かける気難しい老人がそうかも。

そうはなりたくないなぁと思ってねw

少しばかり変わった経験なので、それによって得たデータを
お知らせしたいという気持ちもあります。

もし人生がゲームなら、経験値から得たランクアップ法もね
知ればささやかに役立つと思うからですw

そうなってくれればよいなぁと、思うんです。
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2011/06/07 13:39
未だに父の存在に守られている自分を、幸せ者だと思うよ。
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2011/06/06 22:35
私には想像も出来ない経験をされてきたんですね。
あまりにも想像がつかないので、なんて言葉で書いたら良いのかと思ってしまいます。
それぞれの生活の中で複雑な思いをされたかと思うと胸が苦しい感じがしました。
とても大変な思いをしたからこそ、黒猫手毬さんがとても優しく、
物事を冷静に判断されてしっかりされているのなだと思いました。
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2011/06/06 17:25
南の島のヒロさん★コメントありがとうございます。

書いていることに嘘はなにのですが、文字となると
悲惨が浮き上がってくるので、自分でも驚くのですww
イヤ、それほどでもなかったけどなぁとか、逆に思ってみたりwww

戦後の何もない時代を、生き抜いてこられたのですね。
食べ物が少ないとうことは、子どもにとって
それは厳しいことであったと思います。

どんな事情があったにせよ、子どもを手放してしまっては
それで関係が終わるのは、仕方ない気がしますね。
ヒロさんのように、大人の都合に振り回されると
深い傷を受けてしまいます。

母方の叔父で、よりよい境遇に養子に出された人がいて
大学教授にまでなったのですが、ずっと怨んでおられました。
生家にいれば、大学など遠い話であったのにね。

この辺りの痛みは、経験した人でないと分かりづらいでしょうね。

記憶がないのはある意味で致命的な気がするんです。
DVであった父の方がマシなんですね。
ネグレクト虐待の方が、暴力よりも幼児にダメージを与えるのが
分かる気がします。

それでも生母と同じ病で、初めて入院しました。
生母はそれで亡くなったんです。
遺伝子というものを考えた日々でした。
どこかで繋がっているんでしょうね。

そう思うと切ない話ですが、事実なので仕方がありませんねww
父はクリアできるのですが、生母は非常に難しい。というのも
同性の親というのもあるかなぁと。。

ヒロさんやわたしは、激しくキツイ性格なんでしょうね^^;;
だから何とか乗り切ることができた。

そこに捕まってしまって抜け出れない若い人もいて
何とも切ない想いになるんですね。

辛いことをそのまま辛いでおかず、理解して消化してしまえば
有効利用はできる可能性を秘めてますものね。。

打たれ強くなるとかww
助かることもあるけれど、嬉しくはないですねぇww
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2011/06/06 16:51
KOOLKATさん★コメントありがとうございます。

書くとね、悲惨になるの^^;
文字にすると自分でもオェー!と驚くことがしばしばw

一緒に暮らしている時は、父のDVを何とか止めなくちゃと
必死で、悲しんでいる暇はなかったの。
離れて普通に暮らし始めてからの方が、イロイロ考える余裕ができて
大変だったかもしれませんね。

父は性来、弱い人で、そこに本当に辛いことが重なり
自分もだけれど、周囲をも苦しめる結果となった人だと思います。

誰かが自分を救ってくれる、救わなければいけないと思う人だった。
そんな甘やかされた境遇で生きてきたのね。

それが許されるのは子どもの内で
大人になれば、当たり前だけれど自分の力で自分を救わねば
周りも不幸に巻き込むのよね。

周囲の人がどれだけ願ったとしても、届かない。

わたしはさ、優しくはないのww激しいのww
それを自覚しているから、自分を騙しては生きて行けんやろうなぁと
思っています。

なんというか、嬉しくないことにww
わたしの身内は、哀しみを抱え込んで生きた人が多いの。
血縁は避けたくても、避けれない運命みたいなものだから
忌避するか、受け入れて理解するかしかなくて
仕方なので逃げないことにしましたw

そこから思うことは、自分の弱さから逃げないで欲しい
ということかなぁ。。

いつも闘ってばかりではしんどいので
ココゾ!という時だけでも、自分と格闘して流されないでいて欲しいし
そうありたいなぁとも。

それが傍目にはどうあれ、自分の幸せに結びつくのかもなぁと
思っているんです。。
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2011/06/06 16:47
黒猫手毬さん、こんにちわ。

 ウンウン、貴女の考えて、そして決めておられることが良く判ります。 ワテも貴女ほどでは無いけど、恵まれない幼少期を経て来ましたわ。 ワテが産まれたのは、当時の国策にも乗って「産めよ増やせよ。」の時ですわ。
ワテには、1才上の兄貴が居ました(後で知った)けど、ワテが生まれて程なく亡くなってます。 ですから、戸籍上では次男ですが環境は長男ですわ。

 それが、終戦前に父が他界。(ワテには、たった1つのおぼろげな遊んでもらった記憶があるだけです) そして、空襲で産まれた家も周囲も全てが焼け野原。 空襲から逃げた時の記憶も3つのシーンだけ残ってる。
そして、母の実家の持ってる借家に移った。 そこでも空襲がありましたわ。

 戦争が終わって、残されたのは、母と祖母、そしてワテと弟ですわ。 食べるものが無い、家の前の道を耕して畑にしたし、イナゴ取り、ザリガニ取り、あるいは国鉄廃棄石炭ガラから、使える石炭やらコークスを取ってました。
そんな生活の中で、母が再婚したんです。 祖母が二人の子供の面倒は見られないから、ワテが連れ子で行きました。

 そこで、異父弟が2人出来ました。 上の子は、ボンと呼ばれ、下の子は小ボンです。 ワテは、名前の呼び捨てですわ。
別になんにもなくても、僻みますよね。 それで、手のつけられない子になったんですわ。

 この子はダメ! で、祖母のところに返されて、代わりに実弟が行きました。 そこから後は、貧乏だったけど祖母に育てられ、教えられて育ったんですわ。 以後、もう亡くなった母ですが、ワテは以降一度も「お母さん」とは呼ばなかったです。

 甥っ子(弟の子)の結婚式で出会いましたけど、そう言う姿勢は貫きましたよ。 異父弟の2人は、今でも兄貴扱いをしてくれますけどね。

 これって、ぬるま湯環境で無かったから、ハングリーにもなれるし耐えられる、そう言ったことを学べたのかと。

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2011/06/06 03:41
のほほん、と育ってしまったアタシには想像も出来なくて
コメを書くのもおこがましいと思ってしまうけれど。。。

つらい事を経験したからこそ、強くなって、周りに優しくなれる人達と
苦しさにうちのめされるだけになってしまって、自分にも、大切だったはずの周りの人達までも
傷つけてしまうようになる人達がいるのかな、と思いました。

黒猫さんの大きな優しさと洞察力の深さがどこから来ているのか
ほんの少しだけ見えたような気がします。




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