Nicotto Town



前漢(西漢)・農村・都市

当時の農民の一戸の家族の平均的な人数は五人。
一家が所有する耕作地は約100畝(660a)。
ここから年間200から300石前後(5.6tから8.4t)収穫があった。
戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基に課税や徴兵が行われた。

次男、三男がいた場合は分家するのだが、分家するほどの私有田を持つはずもなく、
一人が受け継ぐのが基本であった。
その他の者は、
国家から支給された田(戸主以外の公田は狭く別個に税があった)を耕したり、
豪族たちの仮作人(小作人)になった。
概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、
里がいくつか集まった集落は大きさや重要度により上から県、郷、亭と呼ばれる。
漢以前の戦国時代において集落は基本的に城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。
邑は元々、氏族が一纏まりになって生活するもので異姓の者たちは排除されていた。
漢代には、異姓の者でも受け入れるようになった。
集落の周辺は城壁が囲い、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。
閭には一つ門(閭門)が設けられて、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。
農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て耕作に従事し、
日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返した。
貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田まで行く生活をしていた。

集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。
有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。
父老の中から県三老、郷三老が選ばれ、それぞれ県、郷の纏め役となった。
また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ集落の者が集まる場となった。
この市は自然発生的なものではなく、政府により管理されるものである。
そのため罪人の処刑も市で行われる。

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