経験的適量
- カテゴリ:20代
- 2011/10/22 14:00:54
最近はシリコンスチーマーを使って,料理本を見ながら簡単お手軽な男料理にチャレンジしています。作ってみて思ったのですが,ご飯と一緒に食べることを考えるとやっぱり和食が一番美味しいですね。鯖の味噌煮が最高においしかったです。それにたいしてデミグラスハンバーグを作ってみると,クリーミー過ぎてご飯があんまり進みませんでした。昔から米ばかり食べてきたせいか,パスタやパン,ラーメンなんかではいまいち食べた気がしません。お腹はいっぱいになるのですが満足感が得られないのです。加えて,中華は別として,フレンチやイタリアンなおかず?は米には合いませんね。なんだかんだ言って最高の贅沢は,白いご飯と味噌汁と焼き魚と漬物のセットです。
ところで,インターネットが普及したお陰で様々な情報をネットを通して得ることが出来ます。例えば料理初心者の私が料理本を見て調理しているときに「塩少々」を発見して少々ってどれくらいだ?と半ギレになっても,同じように疑問に思う人はネットにも多々いてその回答も簡単に調べることが出来ます(ただし「適量」には未だに腹が立ちます)。料理の方法のように,具体的に知りたい内容が定まっていれば答えはすぐに収束していきますが,曖昧なものや結論の出ていないこと,流動性の激しい内容を調べようとすると,種々の意見やデータが散らばっており,正しい内容を選択することは困難になります。
多くの情報から正しい情報を選択的に得る能力を一般に,メディアリテラシーということはご存知の方が多いと思います。しかしこの能力は簡単には身につきません。「正しい」ということさえ曖昧です。そこで面白い記事を4つほど紹介します。
情報リテラシーについて
http://blog.tatsuru.com/2011/09/16_1350.php
思考途中の記事を叩いてネットの最良の部分を潰してしまう人たち
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/7546
自分は常に合理的・理性的だと思いたがる人達
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100719/p1
論理的帰結による判断と事実確認による判断の違い
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/52296791.html
それぞれよく出来た文章で,目からウロコでした。特にお気に入りは4つ目です。読んだ当時はかなり感動した覚えがあります。
最近の僕の興味は,「間違うことに抵抗のない議論の場・人格を作るにはどうすればよいか」ということです。僕は大人になればなるほど,恥をかくことにかなり抵抗が強くなりました。この時の恥とはつまり,自分の間違いを指摘されることです。日本人は,意見の否定と共に人格の否定をすることが多いと聞きます。そのことが議論の場の減少に繋がっているのだという意見もあり,またそれによる刷り込みなのか,意見の否定をされると人格の否定もされた気になるということもあります。解決方法については上記リンクで。知識に謙虚であり,メタ認識能力をつけ,相手に勝つのではなく議論することに尽力すれば良い方向に行くと思います。特に,このサイトのように多くの年代の方がいらっしゃる場はとても有難いので,いろんな考え方を聞いてみたいと思っています。
今後も多くの方と知り合いになれたら,そして問題提起に対して様々な意見が聞けたら,と思います。
大体分かりました。日本は恥の文化とはそういう意図だったのですね。
日本における,失敗への抵抗は恥をかきたくないことへの抵抗である。恥とは他者の視点を気にした結果の自分の中の基準であるので,それを改変するために,他者の視点以外の自分の中でのはっきりとした強い基準を作って対応する,ということですよね。
恥をなくすような訓練というのは,僕の場合だと恥の受容,てらもっちさんで言えば論理と恥の分離を意味していますよね。
まささんは,恥と感じる基準を変化させていくべきという主張ですか。謙虚であることはとても大事ですね。謙虚でなくては人の意見も素直に聞けませんし,どんどん横柄な人物になってしまい醜くなってしまいますしね。
罪の意識は自分で作っているということも分かります。罪を許さないのは自分自身で合って,許されない罪などないことも知っているつもりです。
だから、何にしても、自身の中にある倫理観や、道徳心に反さなければもう、グイグイよ!それ!グイグイよ!みたいな?
間違ったら、やっべ、神様!やっちゃったよ!って感じ?(適当に言っちゃったけど、欧米生まれのクリスチャンの人教えて!)
ごめんなさいね、厳密に定義された言語ではなく、ニュアンスで書いてるもんで、ドンティーンク!フィーッッッル!で駄目ですか?あ、駄目っすか。
牽強な文章ってのは、あー、正確に言えば、やや牽強な文章って書くべきだった。アカデミックな議論は言葉の厳密さが求められますもんね。難しい。
書いていて少し思ったことはね、失礼、思ったことはですね。
恥ってのは、性質として、他者の目線がその価値の判断基準になるんです。恥って人との関係性がなくては発生しない感情なんですね。
で、恥には常に萎縮が伴う。(怒る人もいるけど)
じゃあどうすればええかっちゅうと、自分の中に何か基準を作れば良いんじゃないでしょうか?
例えば、相手に間違えを指摘された→恥ずかしいと思う→萎縮して黙る、もしくは怒る。
では無く…
相手に間違えを指摘された→自分の中の基準では恥ずかしいことではないと判断する→冷静に対応する
こんな感じでしょうか?
要するに、相手の思う基準に左右されることなく、自分が正しいと思う基準に従って行動する、って感じですね。
でも、これってとても難しい、何しろ日本は恥の文化ですからね。
じゃーどうすっぺか、となると、これは心理学の範疇になるかもしれませんが、恥を感じなくするような訓練をすれば良いんじゃないでしょうか。
それと、内心で優れた、規範、もしくは哲学を持つこと。そのうえで、人の目よりも、自分の良心を大切にすること。そして何よりも大切なのは、謙虚であること。
あーー・・・・ここまで書いておいてなんだけど、恥=抵抗ですよね?認識的に?マジアカデミックな議論って難しいね!
やはり最後の部分で違いますね。
僕の言う,否定に慣れるというのはそれを受け入れることで,否定を受容することです。
自分が認めたくないことでも,「まぁそういうこともあるか」とか「失敗だってするさ」と受け入れられるようになることです。
論理と感情を分けることとは違いますね。
書きたいことが出来たら書きます。普通のことも書くので期待しないでください。
「意見の否定を冷静に受け止める訓練をしたほうが生産的だよ。」という主張は同じです。
論理または思考と感情の完全分離は不可能です。
harukiさんの前のブログのコメントを少しいやらしく使えば、「自明です。」
不完全分離であり、その分離した度合いを改善とすれば矛盾は生じないと思います。
否定に慣れるということは、
「意見の否定を冷静に受け止める訓練をしたほうが生産的だよ。」という主張と同じであり同意します。
ただ、人間というものは思考(論理)と感情をわけて考えずに、一体として認識する傾向がある気がします。分けて考えた方がお得な結果を生むように思います。
言葉の定義の違いについては。。。。はぁぁ。 課題ですよね。
それよりもharukiさん。そろそろ次のブログを。。。。前半も含め期待しています。
「意見の否定を冷静に受け止める訓練をすべきだ」という主張は同じであることと理解しています。
否定に対して悔しいとか邪魔されたような嫌な気持ちを,「それは一旦置いといて」することを論理と感情の分離と表現されていると思います。これは僕もそうすべきだと感じます。
ただ引っかかるのが,てらもっちさんは論理と感情の分離を主張されていますが,てらもっちさんも以前にコメントで理解を示していたように,どうあっても論理と感情と分離することは不可能であるという点です。訓練によりある程度出来るのは分かりますが,論理と感情の分離は不可能であり,だのに論理と感情の分離がよいと主張するのはそれ自体に大きな矛盾を内包していないでしょうか。
僕は「それは一旦置いといて」が出来るために必要なのは,やはり否定に慣れることだと考えます。
結局行き着くところは同じようなことだとは思いますが,少し気になったので。
>感情論とは結論を支える最大の論拠が自身の感情であるような議論のこと。(Wikipediaより)
感情という言葉に対する認識が僕とてらもっちさんで違うように感じました。僕は「感情によって左右される」くらいの認識でしたが,てらもっちさんは「感情的」と表現されるようなことの認識だったのですね。
今頃になっての返信失礼します。
>論理と感情の分離が必要ということですが,感情論もひとつの意見ですよね。論理と感情の分離は議論のスムーズな進行に必要なだけであって,間違うことへの抵抗のない議論には関係ないのではないでしょうか。
間違ったことに対して恥をかく。ということは「恥ずかしい」という感情が発生したと考えました。また意見の否定をされたときに、論理的に考えれば、「1意見の否定」として冷静に受け止められますが、感情が伴うから「自分の意見」=「自分の人格」と感じるようになると思います。
僕も感情から発生する意見も、ひとつの尊重される意見と思います。ただし、議論の中に感情を持ち込むことは「間違うことへの抵抗のない議論の場」にはなりにくいと思います。極端な例ですが、「お前、そりゃ、違うだろ!こら!」と怒鳴られれば、間違いを恐れない積極的な発言はしにくいと思います。
以上です。いろいろと興味を持って質問いただきありがたいです。
牽強の意味が「道理に合わないことを無理にこじつけること。」なので,矛盾点はあってもよいと思います。
文字に起こしてみるというのは考えの整理になりますから,そのような機会もよいと思います。
また,自分の考えを提示するのも,他人の意見によってより磨かれていくのでよいと思います。
また,話をしてみないとお互いの理解の確認など不可能ですので,意見を提示してみるのもいかがでしょうか。
実際,てらもっちさんの意見を突き詰めていくと,僕の考えと大筋は同じであることが分かりました。
興味が沸く内容でしたらご意見ください。
なるほど。日本人が議論下手なわけだ。だって証拠に今俺、すっげー恥ずかしいもん。
それは,日本ではその場を作るのは無理だろうということでしょうか。
それとも,既に存在しているであろう欧米に行き満足するのが手っ取り早いだろうということでしょうか。
それとも,既に存在している欧米で形成方法を学ぶのがよいということでしょうか。
えーっと、
「間違うことに抵抗のない議論の場・人格を作るにはどうすればよいか」
というところです。
こんばんは,はじめまして。てらもっちさんのサイトの足跡から失礼しました。
何に対して手っ取り早いとおっしゃっているのでしょうか。
もしかしたら、欧米に住むのが一番手っ取り早いのかもしれませんね。
世代の違いかもしれませんが,やはりてらもっちさんの主張する完答主義ほどの空気は僕の世代では感じませんでした。授業の進行上やモラル上の問題として方向性を整えるための統制は見られても,授業においては間違いを許さない雰囲気というのはありませんでした。
論理と感情の分離が必要ということですが,感情論もひとつの意見ですよね。論理と感情の分離は議論のスムーズな進行に必要なだけであって,間違うことへの抵抗のない議論には関係ないのではないでしょうか。
長い議論におつきあいいただきありがとうございます。
完答主義という造語は,「反論されにくい完璧な回答を期待する考え」=「間違いを許さない雰囲気」という意味で使いました。国語や道徳でも完答(教科書的な答え)を期待される雰囲気があったというのが僕の経験です。
世代が違いますので、今は異なるのかもしれませんね。僕の頃にはディベート大会などはありませんでした。想像ですがharukiさんの世代には、僕たちの頃より中学/高校を通して間違いを恐れず自分の意見を主張する方々が育っているように思います。ちょっとした社会の変化であり喜ばしい事と思います。
文化が教育を規定する。とは教育内容/カリキュラム/プログラム/教科書はその文化が色濃く反映される。という意味です。どこまでの数学を勉強しなければならないのか、どの詩や文章を国語の教科書に載せるのかを決めるのは文化である。という「決める」の意味で「規定」を使いました。
「間違うことに抵抗のない議論の場・人格を作るにはどうすればよいか」という問題提起について、論理と感情の分離が必要で、論理について体系的に教育し、実戦的な経験を積む事が重要である。ということを強調したかったのですが、文章構成力が足りなかったようですね。
それでは、また。
大変分かりやすい文章になったと思います。
完答主義という造語は,「見本的な答えしか認めずそれ以外を排除する考え」ということでよろしいですか。
完答主義だと言いますが,国語や道徳で完答は求められません。経験的に「そういう解答もある」と許容されるように思いますが,完答主義は本当にあるのでしょうか。
>教育が文化の一部をつくり、
これは分かります。
>文化が教育を規定する。
これはどういうことでしょうか。教育と文化はお互いに強く影響しあうという以上の意味合いがあるのでしょうか。規定とはどのような規定でしょうか。
議論の授業を取り入れることで,議論に慣れ,そして否定に慣れるという教育を施すことには賛成です。実際にディベート大会を実施している中学・高校などもありますよね。うちもそうでした。
文化から変えようというつもりはありません。根本の原因として,文化によるものが大きいとの主張です。
ご指摘ありがとうごございます。
頭の中がごっちゃになりやすい性格ですので、事前の論旨の明確化、推敲など実施しながら生きていきたいと思います。
1000文字制限で削った部分もあったので、分かりにくくなったようで申し訳ありません。
前半はご指摘のとおりです。
後半は、
1.感情は先天的で人によるふれ幅がある。論理は後天的で教育により違いを一定幅内に収められる。
感情と論理の結びつきについても議論のトレーニングを積む事で切り離す事が可能。
簡単に言えば、harukiさんのいうとおり日本人は「議論になれていないからさもありなん。」
2.日本の教育は「完答主義」であるため、間違う事に抵抗の無い人格が構成されにくい。
小学校時代は全員で手を挙げていたのに大学時代には手を挙げる事が少なくなって
いる。意見の表明に対するチャレンジングなマインドがその中間段階で失う結果になっていると思う。
そして
異端排除文化か小議論教育のどちらが、活発かつチャレンジングな議論の場の減少に寄与しているか
については、個人レベルでいえば小議論教育が寄与していると思います。
日本という規模の集団でいえば、教育が文化の一部をつくり、文化が教育を規定する。という事かと思いますが、ただそのような風土を変えていくためには、文化をむりやり変えていくより、教育を変えていくほうが効率的に思います。
2つのコメントを何度も読んでやっと内容が大体分かりました。はっきりいっていまいち言っている内容がよく分かりませんでした。何に対して言っているのかということが曖昧なまま話が進んでいるように思います。文章がフラフラしている印象です。よって,最初にまず何に対して言及しているのか,自分が何を言いたいのかをはっきりさせてから,筋道立てて理由を列挙するなりするのがよいと思います。その後の推敲もお勧めです。また/や()は一旦思考が本筋から離れるのであまり多用しないほうがよいと思います。
前半については,「経験を共有することである程度意識も共有でき,コンセンサスを得やすくなる。しかし個々の感情による違いも考慮すべき」ということですよね?
後半については,「欧米は議論の訓練をされており,人格否定のようなことは起こらない。それに対して日本は議論に慣れていないからさもありなん。」ということですか?
「意見/人格否定と教育の関係」の文章の前半部分って必要ですかね。
>教師/生徒の受け答えにより授業が構成され、意見がYES/NOで評価される。感情的には意見否定が恥と結びつけられる雰囲気があります。
ここが一番聞きたいところなのですが,本当にそうでしょうか。道徳や国語での意見は間違いと否定されることはなかったように思います。
むしろ教育によるものではなく,村八分のような,コミュニティの繋がりを重視しすぎるために起こる,異端を排除する文化が原因ではないでしょうか。
人間同士の違いは判断スピード以上の違いは有ります。
分かりにくい表現で申し訳なかったのですが、
強調したかったのはアウトプット(もう少し言えば思考/感情プロセス)の違いについてです。
花を見た時に、香りを嗅いだり、観賞する、又は無視する人間はいますが、
蜜を吸ったり、食べたりする人間はいない。
チンパンジーと人間の違いはあるし、人間という枠の限界を意識する事は
議論/合理性/感情の議論をする上で重要ではないかと思っています。
感情論については、harukiさんと同意見です。
「ベターな解答を得るための道具として合理性は十分有用な能力」とは適切な表現だと思います。
意見/人格否定と教育の関係ですが、
合理性(思考)と感情(性格)、そして合理性と感情の結びつきに着目した場合、感情というのは先天性が強い特性と思います。(一卵性双子の性格類似など。)一方で合理性は能力は先天性、ただし思考形態というのは後天性(どのような情報を与えられ経験をし思考してきたか。=教育されてきたか 経験を自己の論理に置き換えてきたか。)によるものが強いと思います。
合理性に対し感情の影響する度合いについても、やはり経験によるものが大きいと感じています。
例えば、恐怖というのは最も原始的な感情ですが、恐怖により人間の記憶/思い込み(合理性への影響)は強く発生し、人間の行動に強く影響します。例えば議論の最中に恫喝されたら、その人のいる場での発言はしないようになる。これは意見否定が人格否定と見なされる極端な例です。
欧米では論理学/修辞学といった体系的な基礎学問が教育に組み込まれており、さらにプレゼンテーションやディスカッションのような実戦的な場も教育の中にあると聞いています。感情的になりやすい場でありながら意見は論理により評価/収束します。
実際、欧米人とのディスカッションでも経済や技術的合理性を示す事により、議論が収束するケースは多くあります。
日本の教育の中では、倫理の時間はありますが、論理はなく、教師/生徒の受け答えにより授業が構成され、意見がYES/NOで評価される。感情的には意見否定が恥と結びつけられる雰囲気があります。
そのような違いが合理性と感情を区別する。または合理性と感情を結びつける人格/雰囲気の構成になるのではないかと思っています。
人間同士の違いは判断スピード以上の違いはあると思います。
Twitterより渡邊先生のツイート
>「感情論」に人気がない理由は,感情には優劣がないことだと思う。「自分はあなたより正しい」「自分のほうが優れている」と言いたい人にとっては自分の主張が「感情論である」ことは致命的な弱点になる。だから本当は感情論であることにも論理の衣をかぶせて,それによって他者に勝とうとする。
これは僕は理にかなっていると感じます。感情論に間違いはなく,それによって優劣がつけれないものです。意見や考えというのは結局は人の心に動かされます。機械ではないので,人の意見というのは感情に左右され,完全に合理的な人間などいません。これは行動経済学という学問にも取り入れられている考えです。
人間形成というのは,半分が先天性,半分が後天性により形成されると聞きます。人の意見は感情により補正されるので,収束は見られるが,やはり意見は環境・教育・両親に左右されるでしょう。判断スピード以外の違いもあると思います。
同様に,感情に左右されないことなどあり得ず,誰でもバイアスがどうしてもかかると考えます。
ベターな解答を得るための道具として合理性は十分有用な能力だと考えます。合理性の良いところは,訓練によってよりより解答を得ることが出来る点です。感情論を考慮することも合理的ですし,物事の整理や効率の向上など多くの点で合理性は有用です。合理性の忌避は,より高度な合理性ではなく,自称合理的人間の唱えるものに対することだと考えます。
いわゆる天才と合理性はまた違った次元の話でしょう。数学の天才であっても,合理性がないと解答を見つけることは出来ません。そのすごいところは見つけ出す感性の問題だと思います。
あと,一つ質問ですが,意見否定が人格否定につながることの原因に教育を挙げていますが,どのような点からでしょうか。
・・・褒められてますよね?
料理初心者で面倒くさがりな僕にはシリコンスチーマーはかなり助けになってます。
和食っておいしいですけど,本格的に作ろうとすると大変らしいですね。隠し味とか「これは出汁がいいですね(キリッ」とか言えるようになれたらいいんですけど,今のとこは大味でもおいしければよいという感じです。
>レシピの味を正確に再現したい
それです。一人分の正確な量が知りたいんですよね,あとは掛ける人数すればいいので。1人の時の分量の検討がつかないのが気になるんです。再現性や統一性が適量って表現だと低いんですよね。
その自分好みってのが分からないんですよね,特に1回目。完成品がこういうものなのか,適量が適量でなかったのかとか迷わせられるので,適量(1人分だと○g)とかあれば目安ができますし。
つまり「マニュアル人間に適量はやめてくれ!指示をくれ!」ということです。
自分の間違いを素直に認めるというのは,何においても大事ですよね。人間関係で言えば,熱くなっていると,「どう考えても自分が正しい。相手は間違っているから自分は謝る必要はない。」とか考えてしまいがちですが,例えば世間一般で自分が正しいとしても,解決や相手の気持ちを考えると,正しさなんてのは二の次であったりします。問題点が何か考え,解決に何がよいか考え,自分たちの今後のために最良なのはなにか考え,一歩下がって考えることがとても大事になると思います。「私は正しい」というのは厄介な思い込みです。
後半について:少し長くなりますが。。。。
間違う事に抵抗の無い議論の場というのは、難しいものですよね。
日本人は意見の否定を、人格の否定として受動的にも感じやすい面があり
これも障害になる気がします。
(これは社会的な影響だけでなく、教育が影響している気がします。)
僕は人間と人間の違い。そして人間と人間の同一性に興味を持っています。同じ経験をして育てて、同じ情報を与えたら人間は大体同じアウトプットを出すんじゃないかなと思っている。判断のスピードに時間の差があるかもしれないけれど、人間とチンパンジーほどの違いは無い。
だから、会議でも居酒屋でも、まずは情報の共有、そしてできれば、そこにいる人のバックグラウンドや経験を共有する事が合意とか共通理解への近道に感じている。経験的にも。ただ、人類という枠組みのなかで理解の「違い」はやっぱりあって、その中で大きいのは、感情がいかに働くかということ。感情的な対応は、その理解に対して良しも悪しもバイアスをかけてしまうので避けるべきですが、そういう反応を示す人達は必ずどの集団にもいるし、自分自身もそう。それを前提として議論の場なり自分自身を設定しなければならない。
そういう場合に、基本としては相手が示す論点に対して恥であるとか感情をもって対応したり、逆に相手の感情を刺激する事の無い議論の場をつくっていくことが必要となります。それは結局は、論理をもって議論する事です。
一方で論理的人間を自称する人間こそが、自分の論理を崩されたり、冒険的な(間違った)意見を嫌う方が多いように思います。(他人の意見よりも自己の論理にこだわりやすく、また自己の論理をくずされることに感情的になりやすい。)
その中で創造的な意見創出をしていくためには、ブログ主さんやファシリテーターの方が、広い心でその議論を包括的にとらえ、感情的な意見を抑制させ、又は一段メタ的な議論に誘導していく必要が有ると思います。
最後に。。合理的/理性的/論理って本当にいいことなのかなぁ。と思う事が有ります。
APPLEのクリエイテビティとか、アインシュタインの天才性、ゴッホの芸術性とか
そういうものを超えたところにある気がしていてですね。憧れちゃいます。
長くなりましたが。ではでは。
haruki さん、かなりオモシロイですね・・。イヤ、すみません。
シリコンスチーマー、いいですか?
和食が好みなんて、また古風で。
haruki さんは、きっと1人分か2人分しか作らないから分量が正確に知りたいんじゃないかな。
(そんなコトない!って言われそう・・)
それかレシピの味を正確に再現したいのかな。
あおいは「自分好みの味」になっちゃえばイイんじゃないかな~、なんて思っちゃいます。
(失礼なモノ言いはご勘弁下さい。)
>「間違うことに抵抗のない議論の場・人格を作るにはどうすればよいか」
この問題は、面白いですね。まったくその通りだと思います。
彼女とか奥さんに対しては、自分の間違いを早く認めてしまったほうが、イイ関係が作れると
思いますよー! (←論点ズレ。)
慣れに重きをおいた表現ですけど,ほんと僕みたいな初心者には検討がつかないので困ったものです。
読み物として見るってなんですか。読み物として読む人がいることに驚きです。
ポイントをやりくりできるところが知恵って感じでいいですね。女性は化粧品がバカにならないから大変ですね。
「適量」「少々」使いますw
実際、計量しないで使うものが多いですね。
昨日のメニューに近いもので言うと、例えば、マカロニサラダをマヨネーズで和えるとき、
マヨの味しかしないくらいにドバーッと入れる人もいれば、味がついてさえいればOKな人もいますし。
調味の塩コショウも、振ってればOKの人から、コショウいっぱいが美味しいと思う人まで様々で。
初めて作る人には非常に曖昧な表記なのですが、参考程度に見る人や、
読み物として見る人には、たいしたことではないのかもしれませんね。
シリコンスチーマー、ちょっと高そうなものが、化粧品のポイント貯めてもらえることを知りました。
すぐに値引に使いますが、ちょっと貯めてもらっても良いかなぁ・・w