【癌と戦う父】実家の闘病生活記録-・・・
- カテゴリ:日記
- 2009/05/20 01:58:14
もう先は長くないよ!と言われ、慌てて帰郷したあたし・・・。
父に逢う為に1週間、Shopをお休みし、イベント2日間と企業のプレゼン!
そして、教室の日が迫ってるのを知っていてパートナーの彼にお願いし
約5日間、父と向き合ってきました。
あたしは、正直父が怖くて、父の背中を見る度に
震えが止まらなかったり、父に叱られてばかりの子供時代を過ごしてきて
父から逃げるように結婚し、父から離れるように、実家に背を
向けてきました。
・内容は端折りますね(長くなるので・・・・
なので、父が癌になって家族(母・妹・弟)が、大変なのに
目を伏せ、あたしも繊維筋痛症と言う奇病を抱え、癲癇を持ち
(他、神経性の病気など・・・・
それを言い訳に、あたしの恐怖の対象の父から目を背けてる部分がありました。
数週間前、母が1ヶ月も父がお風呂に入れないこと!
自分で立って、トイレに行くのがやっとだと言うこと!
そして、あまりに辛いので、最近では病院も行けないと言うこと!
苦しんで、寝れない。そしてガリガリに痩せ細っていると言うこと!
母の口から、とっさに飛び出した言葉。
1ヶ月もの間、あたしに心配をかけまい!と、黙っていたらしく
妹の話では、あたしに話さないほうが、Rinaの為だと家族会議をしていたらしい。
流石に、弱ってく父を見てる妹が、姉ちゃん帰ってきて。
父さんの死に目に会えなかったらどうするの?と。その時もまだ、あたしは
父の恐怖が頭をよぎり、実家に帰る事への恐怖、そして
何もしてこなかった事への罪の意識と、実家から離れて、父が癌と知ってるのに
何も出来ない薄情な意識と、全てのしかかったまま、帰郷しました。
なのに、帰ってきた私を見て周りの家族は普通でした。
私が思ってる以上に、ガリガリで、帰郷してる間に苦しんでる父を目の当たりにし
受け止めるしかありませんでした。実家にいる間は、泣かない!
父を見て、弱ってる父を見ても、泣くもんか!意識を集中し、普通に接する事を
心がけるも、家族周囲が普通に父の横に居る中
あたしは、何をしていいか分からず、父から少し離れた距離に(^^;
でも、父は普通でした。あんだけガリガリで骨と皮とか無く、立ってる事すら
寝てる間も、苦しんでいたりする父を見ながら「生きる事の大切さ」
そして、父のすごさを見た気がしました。
細かい事は長くなるので端折りますが、父は自分が苦しんでいるのに
周りの気を遣い、あたしの体を労わり、冗談を飛ばし、苦笑いをしながらも
苦しんでいました。
不思議なのですが、ガリガリで、もう長くない!見てて、そう分かる姿なのに
生きてやる!そういう気力みたいなのを、父の周囲では感じたのです。
そして、あんだけ苦手だったはずの父を目の前に、あたしが感じていた事が
どれだけ小さな事だったか?馬鹿みたいなことのように感じて。
・逃げてた事を1つずつ、積み木のように組み立てていこう。
そう決意した5日間でもありました。パートナーの彼の妹さんも帰郷しており
2歳の子供を連れて、帰ってきていました。2歳の女の子は無邪気で
邪気が無く、生きる事を楽しんでいて、自分の子供が欲しくなった時間でも
ありました。
生と死・・・・・生きることの大事さ。
父から色々学び、家族から、あたしは大事な事を教わった気がします。
そして、彼の妹さんの子供さんからは、無邪気な笑顔を。
正直言うと、父を見た瞬間泣き崩れてしまいそうなシーンは何度もありました。
でも、もしあたしが父の立場なら、泣き崩れた娘を見て
同じように悲しくなるだけです。なので、笑顔でいることを心がけました。
いつものドジな、空気の読めないRinaのままで。
今度帰るときは、父が心配していた仕事を成功させて帰るからね?
だから、それまでは闘病生活頑張って。家族で黙ってるあたしの奇病を
見抜いていたんだよね?あたしも、繊維筋痛症治すように努力するから・・・。
・お父さん、あたしは離れてるけど、でもね大好きだよ。
さぞ頑張っているのだと思います。
どうか体が大丈夫でありますようにと、
祈っています。
自分の父親も腎臓癌で数年前に手術を受け現在も闘病中です
今のところ深刻さはまるでないのですが
いつかは必ずやってくる別れの時を考えさせられます
そして自分も神経症から自分の体を、
命を粗末に扱うようなまねをしてしまうような事もありました
生きるをいう事に関してよく考えます
ここであらためて深く考えさせられました
死とは、どこか遠くのことのように思うけど
いちばん身近なことなんですね。
読ませていただきながら、涙が流れました。
私の父も亡くなりました。
この秋十三回忌を迎えます。
父は、会社を退職して、自宅で仕事をするようになり、心の病気になりました。
わたしも、その時は実家から離れたところで生活をしていて、
ずっと父のにいてあげることはできませんでした。
父は、家族に迷惑をかけるからと、誰もいないところで、自ら命を断ちました。
私が覚えている父の最後の顔は、初めて見た父の泣き顔でした。
今でも思い出すと後悔の念でいっぱいです。
大変失礼かも知れませんが、
Rinaさん、お父様が生きていらっしゃる時に、そんな気持ちになれてよかったですね。
そして、Rinaさんのお父様はとても立派な方ですね。
Rinaさんの事を、とても誇りに思っていらっしゃるでしょう。
これからできる事、まだまだたくさんあると思います。
どうぞ、今のRinaさんの思うように日々大切に過ごしてください。
余命3ヶ月と言われたけど、本人、家族の生きるって意思で
2年と少し、みんなで過ごすことができました。
嫁は、当時こちらで仕事してたけど一旦やめて父親の側にずっと居ました。
色々と後悔する事もあったみたいだけど、誇りを持ってやってきた
仕事を辞めても、自分の望むとおりに父親との時間を過ごせたこと
はとても満足してるそうです。
Rinaさんも、ご自身が望むようにお父様との時間を過ごせることを
心から願っています。
私の父親は私が小学校の4年の時に小脳性脊髄変性症を発病
運動機能がドンドン後退亜していく当時は薬も満足にない病気で
約20年戦って死んでいきました。
その間私や家族は段々動けなく成る父を見守りました。
歩けなくなり、車いす。手が動かなくなり、下の処理が出来なくなり
呼吸が出来なくなる、枕元の機械がもし止まれば死の環境が最後の3年間でした
でもその間私の仕事を心配していた父を覚えています。
生後3ヶ月の時貰われてきた私を実子と分け隔て無く育ててくれた
差別が大嫌いな父を今も見習っています。
悔しいのはもう彼を追い越せないことそれだけが残念です(^▽^)
どんなときも、いつでも親は親だって思いました。
Fight!
ここからは、セクハラにもなりかねないのですがRinaさんがお父さんの存命の内にお孫さんを見せてあげることができれば、最高の親孝行になると思います。老婆心切でごめんなさい。
よく頑張ってきましたね。
そして、
とても成長したのだと感じます。
まだこれからのあなたの人生です。
全部受け止め、
諦めないでいきましょう(*^_^*)
実家が沖縄なんて素敵だなぁ~♪って思ってなんとなくブログを覗いて
びっくりしました。
私は もう随分前に父を肝臓癌で亡くしました。
突発性の癌でまめに定期健診を受けていたのに
癌があらわれたときには『余命8ヶ月』と言われました。
私はこの数日後に始めての赤ちゃんを流産するしボロボロでしたが
父は入退院を繰り返しながらも
結局2年半生きてくれました。
“初孫は見せられない”と
絶望のどん底だったのに、流産から半年後に妊娠できて
その子が生まれて1歳のお誕生を迎えた2ヵ月後に
お空の住人となってしまいました。
親子ですもの 心はつながっています☆
つきなみな事しか云えませんが
Rina san 今を前向きに 頑張ってくださいね☆
けれど、曾お祖母ちゃんが亡くなったときはすごく悲しかったです。
それまで、普通に病院で元気な姿でいたから・・・
だから私もニコニコしてたんです。
「早く元気になってね~」
曾お祖母ちゃんが亡くなったときすごい目の前真っ暗になりました。
なんでもっと曾お祖母ちゃんをもっと励ましてあげれなかったんだろう?
でも、それを母親に打ち明けると
「子供は笑ってるのが一番なの。」
と言ってくれました。
思い出せば母親も普通の態度で接していたような・・・
死ぬ前の人としては普通の態度が一番救われるのかもしれません。
若輩者がだらだらとすいませんm(_ _)m
ワタシの両親は、健在ですが・・・祖母が亡くなる時・・・。
ああ言う時って、子供がいると、助かります。
病室にいる祖母が、元気な時の祖母と一致せず・・・ホント、離れた所に、いました。
亡くなった時、
甥は、じっとしてられない程、幼い子だったので、お葬式の時も、2人で、探検しておりました。
たぶん、人の死なんて、まだ、わからないでしょうが・・・無邪気な笑顔に、救われたものです。
すてきな日記をありがとうございました。