greater fool theory
- カテゴリ:20代
- 2011/11/07 00:34:59
土日に頑張ったら資料が凡そ出来たので日記を書こうと思いました。
「日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門 藤沢数希 ダイヤモンド社」の中で出てきたgreater fool theoryという言葉を最近知りました。日本語訳は,大馬鹿者理論やより馬鹿理論と訳されるようです。これは「実際の価値を大幅に上回る価格で株式や土地などの資産が取引されている状況」であり,そのモノの価値に関係なく次にまた誰かがもっと高い値段で買ってくれると誰もが信じている状況ということでした。つまりバブルのことらしいです。
この現象はとても面白いと感じました。滑稽とも。そして連想したのは,人は成功が続きすぎると,どうしてもその方法や理論を過信してしまう事象です。
例えば化学であっても,様々な教科書や実験,分析がなされており,それらは真に正しいことのように扱われます。しかし例えば実際に反応の様子をリアルタイムで観測するということはできていません。そもそも分子や原子ひとつさえ見ることは難しく,そんなミクロなことの観測が出来るのはまだ先の話でしょう。しかし教科書があり,正しいとされる反応式などはどうして存在するのかといえば,結果論でしかないわけです。なんとなく仮定してみたら辻褄があったので,恐らく正しい,でしかありません。とても曖昧な話なんです。これは化学に限った話ではないでしょう。科学は論理だてて考えているからとか精巧な理論から成っているから正しいというのは,過信でしかありません。
原発の安全神話が批判されたり,そもそも安全神話などあり得ないなどという議論も見かけますが,これらも過信が関連しています。「絶対」などという科学者を信じるなという言葉も見かけました。少し逸れますが,「絶対」という言葉には発言者の不安が表れているそうです。「君を絶対に幸せにしてみせる」などといった言葉は,発言者の「出来ないかも」という不安を言葉により払拭しようとしているのですね。
敢えて風呂敷を広げすぎるなら,ここに命がある感謝を怠ることは,生きていられることへの過信とも言えます。
閑話休題。
よくお邪魔している方にかなひささんという方がいて,その中に子供に受けさせる予防接種のエピソードについて語られている日記がありました。そこでひしひしと感じたことは,「少数派の意見を守る難しさ」です。「少数派の意見を聞こう」とか言ったスローガンはよく目にしますが,聞くだけになってしまい,それを本題に組み込むというのはとても難しいことと感じます。数は力であり,声の大きさは支持者の多さに比例します。例えば少数派の利益を多数派と同程度となるよう組み込んだなら,一人あたりの少数派の利益は多数派よりも大きいことになります。そしてそれは多数派の不満を招きます。多数派の利益を優先するジェレミー・ベンサムに習った行為は,それそのものが少数派の利益をねじ伏せているように感じてしまいます。しかし社会自体はそのように進行しています。少数派の意見はどこまで守られるべきなのでしょうか。
私は、はるきさんは、感性が研ぎ澄まされていると思います。私からこのような話を引き出してくれたこと自体、感性がその対象に対して研ぎ澄まされていないと、無理です。私は、刺激され、ひきだされることで、(夫からもずいぶん発想やヒントをもらいましたが)自分の中のもやもやに表現をあたえて、腑に落とすことができました。
とりとめない感じになりましたが・・・とりあえずUpします。
フィルターをかけるのは、自我、です。
心の形成に関して、詳細に書いてくださったことで、私の理解も深まりました。
経験が心、自我を形作って、感情はそれをたたいて鳴るもの、というのは、すごくわかりやすかったです。
ちょうど、私は、自分は心の形成が不完全というか、十分でないのだろうか、(心のひだが足らないというか、娘が4さいになったときに、抜かされた、と思ったことがあり)と最近思っていたので、これをきっかけに、昨夜眠そうな夫を質問攻めにして(迷惑な妻です。笑)、ようやく、私は心が不完全とか未発達、なのではなく、心の構造が、世間の多数の人とは違うだけなんだという風に、考えることができました。
そして、はるきさんも、心の構造、においては、少数派、であるのかなと思いました。
”世の中が犠牲の上に成り立っていることへの勝手な義憤なのでしょうね”とありますが、その義憤は、ご自分が心の構造において少数派であり、そのことを含め自我や世間に肯定的に、あるいは正しく(真我のありように近い=”あるがままに”)理解されないことからくる、義憤(情念?)、真我と自我のギャップを知らせるサイン?ではないのかなぁ、とやはり思います。
そして、この例でいうと、フィルターとは、例えば、自分は人の気持ちに鈍感だとか、感性に自信がない(と思っているかは不明ですが)、という認識、でしょうか。
これは、違うタイプがわからない、というだけで、お互い様なのです。ただ、多数派と少数派の違いゆえに、そう思えなかったというか。(深いところから納得しているかが問題ですが、この辺は、私自信の問題をはるきさんに投影していただけでしょうか?)
えっと、自分としては、心は自我や真我がうつるもの、多くの人の場合自我が心を形成していて、真我と魂が同義?くらいな理解しかないし、魂とか、真我とかになると、それが何をさすのか、かなりあいまいで、このことばにかなりの実感を込めて使っている人は、ごくわずかだと思いますが・・・私も普段は使わないし、今も、あいまいなまま使っています。
”あるがまま”(しかも、ありのまま、あるがまま、ごっちゃになっててすみません)っていうのは、1-2年ほどはまっていたスピリチュアル方面でよくつかわれていて、おっしゃるように、その部分は、自分でも混乱したまま漠然とつかっていたかもしれません。ありのままの今の情況と、真我のありよう、両方をきちんとつかいわけなければいけませんでした。
感性で、とか、感覚をとぎすまして、というときには、それは、(以下も唐突で、私の勝手な希望的観測を前提に含みますが)人間は脳をほとんど使っていないとか、DNAの配列のもつ役割がほとんどわかっていない、といいますが、もっと使っていない脳機能とか、DNAにくまれている(とかってにおもっている)たくさんのスイッチをONにして、頭も体の細胞も、もっともっと活性化させて、いろんなことに気づきたい、知りたい、というような意味です。
野口整体でいうところの、全生?
すきなことに没頭しているときの人間の状態?
そんな感じでしょうか。
私が、”感情も感覚も認識もいっしょくたになったような、ありのままの自分”というとき、それは、”情念に突き動かされている自分”でもいいです。
情念につきうごかされるままに、記事を書いてみる。その結果、なにかしらの反応が得られる。
その結果、気づくべきことは自分の心にあった、ことにも気がつく。
さて、私がいつも注目していたのは、今思えば、記事に書かれている(つまりはるきさんが意識的に書いている)ことではなく、背後にただよっているもの、でした。
(ただし、背後(無自覚の部分)と記事の内容(はるきさんが自覚的な部分)が、私の中で明確にわけられていなかったので、ずいぶん遠回りをさせてしまったかもしれません。そういう意味では一連の更新は、かなり誤解もあったかもしれません。)
アポリアというのは、Wikiをよんだけど、よくわからなかったので、私がどういうところにはるきさんの憤りを感じたのか、明確にここ、と指すのが難しいけど、書いてみます。
(えっと、義憤、と、憤りは、私には、違いを正確に把握できませんので、憤り、とさせてもらいます。)
とりあげやすい例は、最新の更新の、世間の事象をとらえて”fool”とか”滑稽”とか、そういう表現を用いて記事として扱っているところです。あるいは、予防接種の話をあえてとりあげたところもそうです。
私との比較でいうと、たとえば私は世間で予防接種のことを問題意識をもって考えてみない人を滑稽とかfoolという風には感じませんし、自分のおかれている状況に憤りも感じていません。ただし、今はそうですが、かつては、世間のあらゆることに対し、ふんまんやるかたない思いを激しく抱いていました。(自分を棚に上げていますが。)
はるきさんに、こういう記事をかかせるものが、まささんのいう、”情念”なのでしょうか。
情念にもとづき、表現してみることは、なんのためにそうしいているのかを忘れなければ、どんどんやったほうがいいと思います。
「感情」というよりも、厳密に言えば「情念」が哲学の骨格となる、ということだけ、書かせて下さい。
また、頭がすっきりしているときにかきこまさせて頂きます。
誤解があるようですが,義憤の解消を外に求める事自体は特におかしなことではないでしょう。しかしアポリアのような解決不可能な問題への努力は,昇華しにくくやり場がないため,外に求めるのはおかしい,または非効率であるということを理解したのです。「これは独り相撲をしているだけだ」と。それに対して「話し合いの場でこうしたほうが効率的なのにしない,できない」ということへの憤り(これは義憤ではない)は,解決可能であって,解決方法を模索することは外に解答を求めることでしょう。
>「感性で感じ取って認識した”ありのまま”」あるいは「感情も感覚も認識もいっしょくたになったような、ありのままの自分」
やはりここの部分で納得できません。ありのままでない状態などあり得ないでしょう。感情など抑えようとして抑えれるものではなく,叩けばそれぞれ鳴るものです。その鳴り方を決めるのが経験を通した人間形成だと思います。感情の音が鳴る心の形を作るのがやはり経験であって,感情は心を叩いたあとに出てくる生産物に過ぎません。よって柱となるのは心の形,つまり経験であって,感情を柱とするというのはおかしいと思います。かなひささんのおっしゃっていることは,感情が発生したときにフィルターをかけるなということですよね。それは感情を柱としているのかどうか。
かなひささんとまささんはどちらも感情に重きを置いていますが,かなひささんは「感情にフィルターをかけないこと」,まささんは「感情論の肯定」をしていて実は違うことを主張しているのかなと感じます。
ありのまま生きることを主張するなら,ありのまま生きていない状態とはどのようなことを言うのか。感情を抑圧している状態?子供のように生きろということか?感じたままに生きていない人間なんているのだろうか。そうそういないようにも感じる。それとも夢と現実とのギャップに苦しんでいる状態のこと?分からないです。主張が見えないです。
フィルターをかけるなということであれば,フィルターとはどうすれば取れるのでしょうか。取るメリットとデメリットは?フィルターとはそもそもなにか。何がフィルターをかけさせるのか。フィルターは本当に存在するのか。別の表現では?フィルターがかかっていることを確認するには?
自分の中にその答えを求めれば、じょじょにすっきりしていくことは可能だと思います。
はるきさんの場合、たぶん、体が心の犠牲になっているのではないでしょうか。そして、体は素直にそれを表出していて(ブログを読めば、あぁ、なんか憤慨しているなぁ、と感じます。)でも、心がそれに気がついていないように見えました。
私やはるきさんのようなタイプは、心で自分が憤慨していることを感じ取るのが難しいので、自分の行為を客観的にながめて、自分がどういう状態で、どう感じていて、本当はどうしたい、といったようなことを理解するしかないのかな、と思います。
まささんの、"自然的な感情から生み出されるもの”については、私はあまり”感情”ということばにとらわれずに、自分なりに、「感性で感じ取って認識した”ありのまま”」あるいは「感情も感覚も認識もいっしょくたになったような、ありのままの自分」みたいな感じに読みました。(まささんの意図とちがっていたらごめんなさい)
そうすれば、そこには”経験”も含まれ、それらを柱にする、ということは、感じたままに生きる、ということですが、たぶん、変わらぬその人らしいものがその中に存在すると思います。
重要性が増せば確かに自然と増えるでしょう。
ところでなぜ僕がこのことに重きを置いたか思い返してみると,
世の中が犠牲の上に成り立っていることへの勝手な義憤なのでしょうね。
勝手に理不尽を感じ,どうにかできないかと考える。身勝手なものだ。
こう考えてみると解決などあり得ないというのも分かってきました。
ただすっきりする解答を見つけるというのは可能なのでしょうが。
>>まささんへの追記
質問させてもらいたいのですが,感情を骨格にするというのがやはり全く想像が出来ません。
これは感情論を重要視するということでしょうか。
予防接種の件に興味をもっていただき、ありがとう。
この件に特化していえば、日本だけ義務、ではなく努力義務であるだけで、いまのところは満足しています。
時代の流れにそって、受けない選択の意義が重要になってくれば、自然に仲間がふえていき、議論もなされるようになるだろうと、わりと楽観的に今は考えています。
マルクスの資本論は有名な本ですが,読む気がしませんね。予想外に長いです。学校の図書館にあるようなので,少し見てみます。
感情を思考の柱にするというのは難しいのではないかと感じます。感じ方というのは年齢に沿って常に変わり続けますから,その都度感じ方,考え方も変わりますよね。変わっても良いということでしょうか。言い換えればそれは,感じたままに生きるということでしょうか。変わり続ける柱はそれは柱なのでしょうか。
変わらない生き方や行雲流水のような生き方,どちらも魅力的であり是非はないと思いますが,思考の柱という観点からは,やはり感情というより経験がそれを作りそうな気がします。
確かに小説はあまり読まないですね。評論は好きでよく読みますが。
芸術の効能の評価は僕には難しいように思います。国語の点数もあまりよくなく,相手の気持を考えたり,言葉を裏を読むというのが不得手ですので。絵や音楽に関しても,ただ感じるままにすごいとか綺麗とかはいいとして,それ以上を考えたり学ぼうという気が起きませんので,それに対しては小説に心得のある方のほうが向いているのではないかと思います。
雑多になってしまいました。
考えの柱、いわば哲学、といっても、単純に、「ああ、この人、可哀想だなぁ」とか、「ああ、これは許せない」、といったごく、自然的な感情から生み出されるものを骨格にすえたら、誰にも動かせぬ、また、動かしがたいものになるのではないでしょうか。例えば共産主義を生み出した、カールマルクスも、そういった感情の発露から「資本論」などの名著を組み上げました。
若い、っていうのは不安定なものですよね。僕もいつもふーらふらしていまっせ。こんなことを書いてますが、30になるまでは、完全に固まらない、というように思っています。
その先人が誰か、というところに虚をつかれた想いです。僕は名著から哲学、歴史の見方などを学びましたが、特に小説好きな人間でもない限り、難しいものがありますね。ごく、普通の人は、縁、運の良さ、などに左右されてしまうのかもしれません。いや、僕もこれからなんでさっぱりなんですが。これからの人間だと、自分に言い聞かせてますぞ。
謙虚はそうですね。褒められると駄目になっちゃいます。人間の習性。今読んでる古典にこんなことが書いてありました。
「若いものは阿諛追従(あゆついしょう。つまりおべっか)に会うと、ころりといってしまう」
お互い気をつけましょうね、本当にね。まだ若いし。いや、でも謙虚だな、って思うのは本音でっせ。うへへへ。怪しいね。語彙力なんて、恥ずかしいですよ。まだまだ…もう、言葉にできない。とにかく恥ずかしい。己の心の中にある、何かに対して、恥ずかしい。
いや、本当に芸術の分野しか、いや、でもそれは一部分的なものかもしれません。個人の差の問題になってきますが、なんといいますか、普段送っている生活の中で、そういう、はっ、とするものを見つける人は見つけますし。それを無視してしまう人もいると思います。
抽象的な表現になってしまいますが、その気付くための受容体の部分を磨く訓練をすれば、いくらでも、人は学べるのではないか、などと思います。ん、待て、でもそれって芸術だよなぁ。ごめんなさい、ここら辺はどうも僕の中で結論が出ません。
いやね、そこは学究の徒であるはるきさんに期待しますよ、いや、本当に。
輻輳とはこれまた難しい言葉ですね。読めませんでした。語彙力すごいですね。
自分の中に考えの柱を作るというのは大事だという話はよく聞きます。だけれども実際どうすれば作れるのか,それが自分にあるのかないのかを確認するにはどうすればよいのか,難しいことが多いです。自分でこうだと考えていた柱もほんの些細なことで崩れてしまって,立て直して,これが老苦というやつですかね。
先人から学ぶというのはとても勉強になりそうですが,さて先人はどこにいるのだろうかというのがまず難しいですね。
謙虚だと評してもらえるのは本当に有難いです。知識をくれる方がそう評してくれると,どんどん教えてくれますから。しかし自惚れてしまうのも分かります。僕もしばしば自分が何様かという態度を取ってしまいます。
ここまで,このようなアポリアを解決するにはゆずれぬ哲学を得る。そしてそれを得るには経験を積むのがよいと考えられます。
しかし,命の問題のように,命の危険を自身や身近に体験出来れば命を意識できますが,そうでないと軽く考えてしまうのも事実ですよね。そして本当に命を意識できる人間はごく一部ではないかと思います。
つまり意識できるほどの経験が出来る人間はごくわずかであるために,やはりその重要性を多くに意識してもらおうとしたとき,経験や哲学なしに,例えば言葉だけででも意識できる,今回で言うと僕が求めたようなハッとさせられる説得の言葉を探すことも重要なのではないかと考えます。
ここまで書いて気づいたのですが,芸術というのはこのためにあるんですね。
ゆうても、あなたの掲示板ですが、なんとなく嬉しいですがな。
金で動く人間もいるし、俺も病気になる前はそう思ってた。マネー大好き、今は普通にマネー好き。誰かヒモにでもしてくれないかな、うそうそ。
このアポリアについては、自分で考えぬいて何かしら、ゆずれぬ哲学を持ったほうが上手く俯瞰しやすいの…かもしれない。自信は無いけど。人間が関与している問題な以上、理論では考えにくい問題でも、あると思われます。
もし、何かしらの真理を見つけて、それを応用したとしても、あいては人間、それも意見は違くとも、思想の異なる多数の人間だから、たとえそれが正しくとも、何かしらの軋轢が生まれるであろうし、漸進的、そして柔軟性のある舵取りをしなくては、ならない。なんというか、輻輳としてるね。
最終的に、個人の倫理観、道徳観に帰結する問題なのかも知れないなぁ。文章にしてみると、本当にアポリアだわ。
もしかしたら、歴史を徹底的に学べば良いかも知れない。この難問は普遍性を孕んでいるし、何度も繰り返されてきたことだから、少数派や多数派、どちらか選ばなければいけない、といったシーンの後、全ての人にどういった価値をもたらすかを見れば、判断材料が増えると思われます。
しかし、はるきさんはなんつうか、謙虚ですね。俺の兄貴も院生やってたんだけど、自惚れいっぱいの鼻持ちなら無い野朗だったから、なんかね、院生のイメージが変わった。おべっかじゃないよ、本当だよ。でも、文章にしてみるとなんか嘘っぽいな。でも、本当だからね。
アポリアアポリア言ってたせいで、アボガドのことが気になってきた。なんか、似てるね。
アポリアという言葉を初めて知りました。
あちらを立てればこちらが立たないというような,葛藤の大きな話題であることは理解していたのですが,
すっきりしないので何かすっきり出来るような解答が得られればと思っていたのです。
命を基準にするのは大事ですね。死んだら元も子もないですもんね。
といっても世の中人の命よりも金で動く場面も多くあるように感じますが。
社会は個人の集合体だから、俺みたいな人間が一定数いれば、また、バブル現象はまた起こるでしょう。そして俺みたいな人間を多数矯正したら、それは起こらない、でしょう。多分?正直わからん。
少数派の意見をどうするかって、普遍的なアポリア(アポリアって難問だよね?使ってみたかった)よね。個人的な意見としては、善悪(例えば外国人の排斥だとか)の問題なら簡単に結論は出るけど、そうでない問題は難しいね。
俺の意見だけれども、多数派、少数派、に関わらず、命を基準にして是が否かを決めたい。
「子供に予防接種を受けさせる金がない、それに、あんた少数派だし」つったら「馬鹿いっちゃいけねぇ、命が一番大切だすっとこどっこい!おまけに子供じゃあるめえか!」みたいな?
例え少数派の意見だろうと、人間の生命、もしくは尊厳、を脅かす(もしくは、そういったものの萌芽が見られる)意見ならば、尊重する必要が無い。と俺は考えるよ。もちろん多数派もしかり、レイシストや、ファシストが多数派だったら、断固として反対する。(方法はわからん)
個人の倫理観の問題にも繋がってくるものだと思う。でも、タバコ税は上げないで、ってのも本音だったり。
結論としては、守られるべき意見と、守る必要が無い意見、というものがあるんではないかな?
タバコ税なんか、無視していいよ、俺、喫煙者なんだけどね。皆大変だし、いいよ。ってこと。