Nicotto Town



トシコおばちゃん。

北から雪の便りも聞こえてくる
冬の入り口に季節は変わっていきます。

入院したり、傷跡が気になったり
そんな日々を過ごしていたわけです。

日常が当たり前にように
わたしにも、全ての人にも舞い戻ってきています。

非日常の中を生きている人々も
それが日常となっていきます。

時間は普通に生きる人には
前にしか進みません。

ふとトシコおばちゃんを思い浮かべました。

母の従兄で母より3歳ほど年上でした。
姉のように母は甘えていたと思います。
我儘な母に助言してくれたり、援助してくれたり
一番助けられ、頼っていた人ではないでしょうか。

母が起こした面倒事や介護などを
一手に引き受けざるを得なかったわたしに
優しい言葉をかけてくれた人でした。

小さい頃、父の暴力に耐えかねて母が逃げて行った場所も
トシコおばちゃんの家でした。

路地が入り組んだ、長屋が連なった
そんな場所でした。

神戸は靴の街です。
靴作りのほとんどは手仕事で
職人さん達に支えられた産業です。

家内工業が多くミシンを踏みながら
それぞれの工程を分担しています。

トシコおばちゃんの仕事もそうでした。
熟練した職人さんでした。
働けば働いた分、実入りもよくなります。

そうやって娘達を嫁に出し(二人は離婚して出戻りましたが)
小さな家を建て、ささやかな贅沢を楽しみながら
地道に生きていました。

そんな中、一番親想いの娘が
脳内出血で突然死。

そしてあの大震災が起こりました。
阪神淡路大震災。

どこからか出火した炎は
止まることを知らず、瞬く間に街を呑み込んでゆきます。
着の身着のままで逃げたトシコおばちゃん達は
とりあえず命だけは無事でしたが
あとは何もかも焼けてしまいました。

避難生活の後
住んでいた場所から山越えをするほど遠くの
仮設住宅で暮らし始めました。

1時間に2本ほどのバスに揺られ
おばちゃんに会いに行くと
仮設住宅の周囲は何もない場所で夜になると真っ暗になる
そんな山の中でした。
雨が降ると通路がぬかるむし
冬は寒いんだとこぼしていました。

帰り際に電車賃がかかっただろうと
五千円札をティッシュに包んで、わたしのポケットに
押し込んできます。
いいよ。そんなの貰えん。
返しても返しても、あかん。あかんと首を振り
手に握らそうとします。
根負けして、受け取とると
ホッとしたように笑顔になりました。

おばちゃんの家があった場所は
一面の焦土でした。
逃げ遅れてそのまま亡くなった人もいたそうです。
仕事場が焼けて、立ち直れず自殺されたという
話も聞きました。
親しくはなかったけれど
知っている人や、すれ違ったことがあったかもしれない人の
悲惨な行く末に、わたしの頭は思考停止ばかりを繰り返しました。

三ノ宮をぶらつくと
突貫工事でビルの建て直し中。
凄まじい土煙りで、咳が止まらなくなりました。
それでも、復興は早かった。
大丸、そごうは早々とオープンを果たし
急速に繁華街は甦りました。

そんな中でおばちゃん達が暮らしていた下町の復興は
区画整理や個人の財力の差で
一向に進みませんでした。

靴産業も打撃を受け、その間に安い中国製品に
シェアを奪われたりしたそうです。

それでもやっと家を建て
もといた場所で生活を再建し始めた矢先
おじさんが倒れ、入退院を繰り返した後
亡くなりました。

トシコおばちゃんにも老いの蔭が深くなり
認知症が現れてきました。
相次いだ悲しみがおばちゃんを追い詰めたのかもしれません。

そんな中で、わたしを覚えておいてくれたのか
「手毬ちゃん!手毬ちゃんやないの!」
と嬉しそうに手を握り返してくれたこともありました。

闘病生活の果て、トシコおばちゃんは亡くなりました。

翌年、新長田の駅前に復興のシンボルとして
鉄人28号の巨大な建造物が出来あがりました。

震災から十六年。
悲しみは一巡して、晩年災害に見舞われた方々が
逝ってしまう歳月でした。

その間に、市営住宅では独居高齢者の
孤独死が相次ぎました。
住宅街に点在する空き地は、長期間雑草が揺れる場所でした。
戻りたくても戻れない人がたくさんいたのです。

言いだしたらキリがないくらい
悲しいことは山とあり、連鎖しました。

今回の災害は原発も加わり
超えて欲しくない阪神大震災の何十倍規模の打撃でしょう。

忘れた訳ではないけれど
わたしたちはそれぞれの日常に戻って行きます。
これは仕方ない事です。

被害を受けた方々は個々の長い闘いに
否応なしに立ち向かわねばなりません。

雪深い被災地の冬、仮設は辛いことでしょう。
福島の子ども達の未来はどうなっていくのでしょうか。
 
特別なことは何もできはしないけれど
せめて忘れないようにしよう。
そんな折、トシコおばちゃんの晩年が浮かんでくるのです。

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2011/12/07 16:17
西の魔女さん★コメントありがとうございます。

自分に置き換えてみないと
本当の被害の大きさは実感できないんでしょうね。。
世界は目まぐるしく動いて
ひとところに人の気持ちは留まらないから
仕方がありませんね。
起きてしまえば、闘うしかありませんからね。。
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2011/12/04 20:46
大きな大きな災害で、想像を超える被害が出て
それは別世界のことではなく
同じ空気を吸う人たち、一人一人の凄絶な闘いだよね。
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2011/12/04 18:15
招き猫さん★コメントありがとうございます。

「裸のフクシマ」という
福島在住の作家さんが書かれた本があって
書評欄を読むと、被害者と呼ばれている人々にも
いろんな人がいる事が分かりますね。。

そろそろ真剣に自立を。。とか
仮設に届けられる家電等を、親族でわざわざ分けて申請
余計になったものを売り払っている現実とかあるみたいです。。

大変な時こそ
卑しくならない心構えを大切にしたいですね。。
反面、余裕が出てきたってことの証でもあるでしょうが。。

なんだかなぁ。。とか思っちゃいますね。。

以前、避難を考えていたおばさまが
山梨なんですね。
気にかけていただけるのはありがたいですね。
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2011/12/02 21:52
市民から集めた税金を、何とかして懐に入れようとする事しか考えない官僚。
そこからおこぼれを貰おうと集まる出入り業者。
自分の所だけにお金が転がり込むシステムを作ろうと、必死なベンチャー経営者。
弱者から何とかしてお金をせしめようとする詐欺師。
庶民の娯楽であるはずの、せっかく根付こうとしているスポーツ文化を私物化しようとする老人。

世の中に役立とうと働く人の所には、潤いは訪れない仕組みなのかな?
そんな世の中にでも、自然の驚異は容赦なく。
みんなが幸せになれれば良いのにねぇ。

そう言えば、私にもトシコおばさんがいます。
山梨県の甲府市にいて、私の業界の景気が悪い事を気にして
時折電話をかけてくれます。
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2011/11/30 16:13
にぼしさん★コメントありがとうございます。

当時の報道体制の在り方に批判が集まったようですね。
それが経験となり、今回多少マシになったこともあったのかなぁと。。

焼けた地域は下町で、小さな家々の密集地だったんです。
市場もあって、すでに衰退しかけていたんですが
元には戻りませんでした。
地域コミュニケーションが崩れたんです。

東北でも似たような感じだなぁと。
おばちゃんは幸運な方だったと思います。
それでも、個人としたら辛い出来事ばかりであったはず。

わたしの家も半壊だったので
再建にしなければならず、
それぞれが自分のことだけに捕らわれていた時期でもありました。
仕方がないんだけれどね。。

そんな個としての運不運が
将来を大きく左右する時期に移動してきたなぁと感じます。
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2011/11/30 16:05
大喜さん★コメントありがとうございます。

あの時は阪神大震災とオウム事件、重なりましたね。
今もそうですが、日本の惨事が世界を駆け抜けました。

東北の方も愚痴が少ないそうですね。
トシコおばちゃんの晩年が寂しいものだったので
似たような、それ以上の経験をされた方々が
北国の厳しい冬を越して行くのだなぁと思うと
なんとも切なくなります。

こうやって書けたのは
やはり、それなりの歳月が流れ
過去になったということかもしれませんね。
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2011/11/29 15:32
おおくまねこさん★コメントありがとうございます。

たぶん、こうやってわたしが自分の街の
当時の状況を書けるのは
それだけの年月が経ったってことなんだろうと思います。

時間は忘れたふりをさせてくれるけれど
心の奥深く陣取ってしまった強烈な記憶は
消えないのだろうなぁと。。

トシコおばちゃんのことは
ほとんど誰にも言ったことはありませんでした。
母も気のどくやったなぁ。。
くらいで会話は成立しません。

被災地に暮らす人たちには
言わないでも分かるから
とりたてて、暗い話は避けるようになっていきます。

それでも街や公共施設やデパートなど
再開したり、建て直されることは
とても嬉しいことで、訪ねて行きたくなりますね。

街全体が住宅展示場のように
新しくなった町内に足を踏み入れた時
幼い頃過ごした記憶は全くなく
迷子になった気持ちに襲われたことがありました。

それも年月と共に馴染んで
今ではすっかり風景となっています。

土地の記憶が失われたことに
やっぱり寂しいなぁという
気持ちだけはどこかに残り続けますね。

明暗がくっきりと
現れてくる時期になってきました。
できるだけたくさんの方々に
明るい希望が持てる復興になることを
願ってやみません。
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2011/11/28 21:56
長田の町を焼き尽くす炎と、赤い月。

阪神淡路大震災のあと、何度もTVで流映された有名な光景ですよね。

そこで亡くなった方の話は、夢に見そうなほどいくつも聞いたけれど、
生き残った方の話を聞いたのは初めてです。
そうですよね。すべてをうしなったんですものね。

そんな中、トシコおばちゃん、がんばって生きてらしたのね。
がんばって家まで建てたんだ。すごい。本当にすごいです。

仮設で過ごす冬。
雪国ですものね。
それなのに断熱材も入っていない仮設もあるとか。

どうかどうか、ご無事で。
私たちは何かできることを少しでも探しながら、
忘れないように生きていきたいですね。
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2011/11/28 18:18
トシコおばちゃんってステキな人だったのですね。
ワンクッション或ことがどれだけ救いになるか?
そのワンクッションがトシコおばちゃんだったんですね。

生活大変だろうに、五千円札をティッシュに包んで帰り際に渡す
ああ!自分も大変なのに他人を思いやる強いココロ。
そういう人が沢山いました。

皆が笑える世界。
贅沢しなくてもいい。
慎ましやかに生きる権利と環境を守って欲しい。
国は国民の幸せの為に存在するのではないのか!!

阪神淡路大震災。
爪痕の残る神戸を歩いていた記憶が蘇ります。
ちょうどオオムの幹部が刺殺されたニュースがやってました。
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2011/11/28 08:51
振り返る、と言うにはまだまだ生々しい現実が横たわっていますよね。
だけど、そう、私たちは毎日を暮らして行かなきゃいけない、自分たちが生きるために。
そして、日常は色々なことを押し流す……

でも、そうなんだ、ふとした時に何があったのかを思い出させられる。
それに、週末のドライブで北に向かわないのは、まだ生々しい現実から少しでも目をそらしておきたい無意識なでも正直な感情からなのだと思う。

一見するとほとんど元通りに周辺だけど、実はあの日以来変わってしまった景色があちこちにある。
復旧しない施設、普及を断念することが決定した施設。
やっと修繕の人が入ってくれた個人のお宅。

一方で、今でもまだ少しずつ「復活しました」「再開しました」の前向きなニュースも入ってきます。
「やっとなの?」って思いもあるものの、やはりそう言うニュースは素直に「良かったよね」と思います。
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2011/11/28 02:24
らてぃあさん★コメントありがとうございました。

今年を振り返る年末が近づいてきました。
なんとも痛ましい災害の年でした。

現実は厳しく見続けることも
なかなか苦しくなってきましたね。

どこかでみんなホッとしたいのだなぁと
わたしも含めて思いながら
罪悪感が顔を出したりして、複雑な気持ちになります。

個々の復興は本当に大変です。
何よりも亡くなった方がいた場合は
言葉もありません。

格差は仕方ありません。
全てが平等ってことは無理なので。
それでも切ないですね。

本当に月日は流れていきます。
等しく降りかかった災害も、それぞれの地域や個人差で
同じとはいえない哀しみを持っています。

ちょっとした罪悪感から
おばちゃんを思い出してみました。
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2011/11/27 17:22
最近深夜何気なくテレビをつけていたら「助かった命を自ら断つ」というようなタイトルが出て、東北の地名を告げられた途端テレビ消しました。
被災地も資金が集まるところはいいけど、復興の格差がすごいですね。
あっというまに月日が過ぎていくけど忘れないようにしたいです。




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