Nicotto Town



生き様に死す。

五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす)
我が名をあげよ 雲の上まで
・・・
淡青紫色の花を咲かせた紫陽花の葉を
生暖かい風が、小さく揺らした。

空一面が厚い雲で覆われて、今にも大粒の雨が
振り出して来そうな気配があった。

西国街道で、清水詣りの者を見かける事は
別にめずらしい事では無いが、その参詣の
一群には、只ならぬ気配があった。

粗末な身なりに、胴や草摺だけと言った様な不揃いな
具足を身に付け、槍をかついで行く者達がいるかと
思えば、きらびやかな甲冑に身を固めた騎馬武者も
いる。

巻いた火縄を携え、鉄砲を担いだいかつい面構えの
僧兵達までいた。

三階菱に五つ釘抜きの旗指物を靡かせながら
街道を北上して行くその一群を人々は、不安な
表情で見送った。


永禄8年5月19日(西洋暦1565年6月17日)

三好三人衆(三好長逸、政康、岩成友通)松永久秀らは
清水参詣と称して一万の軍勢を入洛させ、
「訴状の事あり」と、公方、足利義輝の居館、二条御所に
押し寄せた。

「推参なり。臣下の者共が弓矢を持って訴え事とは
何事であるか」

義輝は色をなした。
・・・
義輝の父、足利義晴(12代将軍)は管領、細川晴元との
争いに敗れて度々、京を追われ、
その都度、義輝も父と共に、近江坂本、朽木谷などで
流亡の日々を送った。

「力無き公方など、天下にとって無用の長物じゃ」

11歳で父より、職を譲り受けた義輝は思った。

「強くあらねばならぬ」

そう思ったが、どうすれば強くある事が出来るのか
わからなかった。

わからぬままに、道を求めるがごとく、的に向けて
弓を引き、武芸の鍛錬に励んだ。

長じてからは、上泉信綱、塚原ト伝と言った
天下に名を知られた兵法家に剣の教えを乞うた。

その間、管領、細川晴元が誇っていた権勢は
その家臣であった三好長慶に取ってかわり、
長慶亡き後、今はかつてその配下にあった
松永弾正(久秀)、三好三人衆などが、京や畿内で
幅を利かせている。

「かような有様では、いずれは百姓の家に
生まれた者が関白の位を賜る様な世になるやも
しれぬ」

かつて義輝は周囲の者に戯言で言った事がある。

・・・
やがて、外の方から武者達の雄叫びが聞こえ
鉄砲を放つ轟音が鳴り響いた。

義輝は、松永、三好のこの度の入洛の意図が自分を
弑する事にある事を悟った。

「どうやら、わしが命も、今は是までの様じゃ」

女連中を御所の外に出した後、義輝は、立ち上がって近習に命じた。

「この館にある刀を掻き集めよ」

義輝は最期を自害では無く、武家の棟梁、公方として、
自らの生き様を貫いて死ぬ事を決意した。

しばらくして、御所の玄関になだれ込んできた武者達は
目の前の光景に思わず息を飲んだ。

直垂姿の男が一人で太刀を構えて立っている。

その後ろには十本程の太刀が畳に突き立てられていた。

「あれなるは、公方、義輝様じゃ、掛かれ、是へ掛かれ」

侍大将の下知で武者達が義輝に向かって槍を繰り出した。

義輝は最初に繰り出された槍を体を変えて交わすと
そのまま素早く踏み込んで、その武者を袈裟に切り
瞬時に刃を翻して隣の武者の胴を払った。

さらに二人を切り伏せて、武者達がひるんだ所で、
太刀を構えたまま、後ろに下がり刃こぼれした太刀を
投げ捨てると、畳から新しい太刀を引き抜いた。

その様にして、義輝はたちまち十人以上を討った。

「何をしておる、公方は一人じゃ。掛かれ、掛かれ
一勢に掛かってお首級(しるし)を頂戴するのじゃ」

侍が大声で下知するが、返り血を全身に浴び鬼神の
形相で、太刀を構えている義輝に武者達は恐れをなし
容易に掛かれない。

「如何した、者共。臆したか、この首欲しくば
打ち掛かって参れ」

義輝は叫んだ。

結局、最期は寄せ手に四方から畳、襖を投げ入れられ
そこから一斉に槍で突きかかられて、討ち取られた。

最期まで御所から退去する事を頑として聞き入れなかった
義輝の生母、慶寿院も、燃え盛る炎に包まれて義輝と
命運を共にした。

足利義輝 享年30歳であった。 

(冒頭は義輝の辞世)

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2012/01/02 15:29
あびにゃんこさん

コメントありがとうございます。

激動の時代を、懸命に生きた人と言うのは、生き生きとしていますよね。

ある意味、生き方の違いは、世が太平の証拠で、それはそれで結構な
気もします。
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2011/12/30 07:55
さすが、歴史もの強いですねぇ。
生き生きと書いてらっしゃる様子がうかがえます。
胆の据わった生き様にもほれぼれです。
今の30歳を思うとなんとも複雑な気持ちになりますね(^^;
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2011/12/13 22:24
まゆさん

コメントありがとうございます。

こう言う激動の時代と言うのは、キャラクターの宝庫ですよね。
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2011/12/13 06:54
剣聖将軍義輝様ですね。

日本史上もっともキャラ立っている人たちがそろった場面を選ばれるとは、さすがとしか言いようがないです><。
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2011/12/12 22:53
スイーツマンさん

コメントありがとうございます。

世を鎮め様として守護大名の争いを調停したり、将軍親政を復活させ様とした事が
三好、松永等を刺激したみたいですね。
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2011/12/12 22:47
ゴキブンさん

コメントありがとうございます。

400年前とか、今から150年近く前でも、新撰組や、勤皇志士等が、京、その他で刀槍を振るったり
、一番最後に刀で派手にやりあったのは、明治10年(1877)、西南戦争での
示現流の薩摩士族と、旧会津藩士等で編成された、政府軍の抜刀隊との争いあたりでしょうか。

刀という物が殺傷能力を追求して、作られた事を思えば、武器という物の原点があるのかも
知れないですね。

そうして、人間は大量殺戮が可能な物を作れる様になっってしまいました><
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2011/12/12 06:10
『剣聖将軍』
一時、京都の治安が良くなったとか
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2011/12/12 06:08
かいじんさんは日本史にお詳しいのですね
刀で本当にヒトを切ってた時代が400年前にあったのですね
昔のヒトはそれをどう思っていたのでしょう
刀は今の戦争で使われることは少ないですが、
戦争や争いの武器の原点がそこにあるのかも
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2011/12/12 00:00
パールくんさん

コメントありがとうございます。

実際には日本刀を持った事すら無いので、わかりませんが、その様に
言われていますよね。

この人、ネットでは、「リアル戦国無双」なんて言われています(笑)
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2011/12/11 23:27
冒頭の句を読んで、美しいなぁと思っていたのですが、実はこんなに壮絶な最期だったのですね;

そういえば、祖父が言っていました。時代劇で主人公が悪人をバッサバッサ斬っていましたが、「あんなに斬れるわけない」ってwww
骨を斬ると、すぐに刃がダメになっちゃうみたいですね^^; 脂もって言ってたような・・・
だから、実際鬼神の如くって戦いなら刀いっぱい使いますよね~
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2011/12/11 22:35
やあさん

コメントありがとうございます。

真偽の程はわかりませんが、この時、畳に突き立てられた、刀の中に
現在、天下五剣と言われている内の足利家が所有していた2振り
(鬼丸安綱、童子切国綱)があったと言う説があり、最期に手に
していたのは、童子切だったと言う話もあります。

この5剣は、御物(天皇家所有)の鬼丸以外は国宝級(数珠丸は重要文化財で
残りは国宝)になってます。

そう言えば、空襲の激しかった戦時下の東京で、少年時代を送った人が
その頃は死体を見ても何も感じない様になったと言ってたのを思い出します。
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2011/12/11 22:10
享年30歳・・・・・。

読みながら、畳に刀を突き立ててはいかんねえ、
なんて、ほわんとしたコメを入れてしまいそうになったよ・・・。

でも享年30歳の言葉がずしんと来た・・・。

この時代なら、夭逝とは言えないかも知れないけど、
昔は人の命がひらひらのものに感じる位、軽かったんだよね・・・。



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