2011年3月11日東日本大震災当時語る(1)
- カテゴリ:その他
- 2012/03/11 12:58:35
みなさん、こんにちは。
宮城・仙台の南東に住むレインボビットです。
今日の午後2時46分であれからもう一年経過しようとしています。
それから被災によりなくなられた東北の方々にご冥福を祈ります。
さて、震災当時の様子をこれから語ります。
3月11日金曜の午後2時46分には、会社の上階近くに社内にいて、直後、東北大震災で震度7度程度の大揺れに見舞われ、机下に数分、一生懸命耐えました。
私からは「おさまれ---!!生きれーーー!!」と心で必死に唱えながらも机の下でよつんばいに近い姿勢で耐えていました。
おさまったのが数分だけでわからなかったのですがおそらく約五分だった気がしました。
会社のビルでは免震構造のため、横揺れが激しかったですが、おさまった時点で一旦社外に避難しました。
もちろん、エレベータは使えないので階段から1階へゆっくり降りていきました。
そのときの壁もあちこちひびと、足元にもコンクリートの破片がみられました。
1階におりて通路の非常用出入り口を通る際、脇の一般通路には驚きが隠せませんでした。
そう、天井のひびが割れているとともに、水がたくさん流れ落ちてきていたのです。おそらく水道管破裂だったのでしょう。
皆さんの避難した人はそれぞれの異なる部署の社員もちらほら見えました。
それから社員全員、部長らが部署ごとに生存確認し、それまで数分待機しました。
社外の周囲をみれば当面、向こうのビルの入り口から大勢の社員があぶりだしてるようにみられます。また、信号機も止まっているため、車も渋滞のように止まっていました。
しばらくして、社内に問題ないようですが再び会社に戻って7階にいたのですが
その後また、15時10分に余震が発生して、さらに机の下に耐え、また一回目のと同じように避難しました。
そのとき大雪に見舞われました。もちろん、みなさんはジャンパーやコートがない状態で冷え症に見舞われる感じでしたがある一人の社員からカイロが配られ、なんとか寒さをしのぎました。
そして15時40分になって余震がないと信じて再び戻りました。
この会社は自家発電があったため、一部電灯が使えるが当時ではいつごろまで維持できるかわかりません。
さて散乱していた資料・PCなど整理しているうち、液晶テレビから信じられない光景がみられました。自衛隊からの中継、荒浜地方の大津波が住宅を襲うところでした。
私たちにはただ見ることで何もすらできないふがいなさでした。
ただ、翌日になってみなさんができることは被災した皆さんに物資の支援、被災の生存情報、生活必須となるガス・水の情報などを欠かさず情報発信することでした。
話は戻るが午後4時10分近くになり、そろそろ私の家族の生存確認しなくてはと思い、部長に帰宅すると報告した上で帰宅へ向かいました。
が、さきほどから大停電のため交通機関が乱れているとともに、仙台駅前の内部も立ち入り禁止、バスプールでも人が大勢固まっているほど長い行列が見られていました。さらに、公衆電話にも行列がみられました。
(2)つづく