自作小説倶楽部 4月自作/不倫 『空にいだかれ』
- カテゴリ:自作小説
- 2012/04/18 23:57:04
「女房は空気だって、あの人言っていたわ」
女からの突然の電話に早苗は「はぁそうですか」と気の抜けた返事をする。
本当なら律儀に相手をする謂れは無いのだけれど、どんな気持ちで電話をかけてきたのかを思うと無碍にも出来ない。
「今夜もあの人、遅いわよ。ごめんなさいね奥様」
少しキーの高い声が淫靡に笑う。
一通り好き勝手に喋りつくして勝手に切れた電話を置きながら
「私ってお人よしね」
そんな話に二十分も付き合ってしまった自分に薄く笑み零しながら、早苗はリビングに戻った。
「そっか、空気かぁ」
ちらり見たベランダの向こうでは、すっかり花びらを散らしてしまったチューリップの茎が揺れている。
白い小ぶりの、可愛かった花。
どうせなら、摘んで飾っておけば良かったと、茎だけが揺れる無残な姿に後悔を感じながら、けれど咲いている花に刃を入れる事も痛々しくてできなかった。
自分は、優柔不断なのかもしれない。早苗はまた薄く笑って瞼を閉じた。
見合いで何とはなしに結婚を果たし、三十年を超えた。一人息子はとっくに手元を離れ、自分はどんどん老けてゆくのに、齢五十を超えてなお夫は女性に人気があるらしい。
年に何度か、思い出したかのようにかかってくる電話は毎回声が違う。そのせいか、早苗も昔のようにオロオロする事はなくなった。
それにしても『空気』とは。今回の女性は上手い言葉を使ったものだと、感心すら覚えてしまった。
「そうね。私、空気なんだわ」
微かな囁きを聞いているかのように揺れる、花の無いチューリップ。
夫の武は毎日が午前様だ。だからといって呑んで帰ってくるというわけでもない。
帰れば「風呂、沸いてる?」と目も合わせずに聞き、「沸いてるわよ」と答えれば「ビール冷えてる?」とまた尋ねる。
冷えている、と答えれば「そう」と服を脱ぎ散らかしながら風呂場へ直行し、その後は勝手にビールを飲みながら遅い夕食をとり、殆ど会話もないままに就寝する。
『私の部屋ではあの人、何でもしてくれるのよ。何でも』彼女の笑い声を思い出して、早苗はふっと笑ってしまった。
「知ってるわ。そんな事」
彼女は武が『家では何もしない男』だと感じているのだろう。
「実際、風呂、飯、ビール、だものね。毎日」
早苗の呟きにチューリップの葉がざわりと揺れた。
「……あれは十年も前だったかしら」
思い出したのは、実家の母が体調を崩した折に手伝いの為、家を数日空けた時のこと。
我が家に帰った早苗は愕然とした。
いつも午前様の武が、まだ夕暮れだというのにリビングに居る。
散らばった洋服と弁当の空箱、ペットボトルの山。武は自分でお茶を沸かすこともしなかったのだ。
そのゴミ山の奥でパソコンの画面に向かい、黙々と仕事をしていた武は、早苗の帰宅に気付くと画面から目を離しもしないで「風呂、沸かしてくれ」とだけ言った。
「新婚の頃、あの人に『家に仕事を持ち込まないで』って我儘言ったことがあったわ」
それ以来武は二度と残業を持ち帰ることをしなくなった。
「でもあの時は家で仕事をしていたの。その理由も私、知っているのよ」
……それは……
「あの人、本当は遅くまで会社に残っていたくないのよ」
武が残業をする事で部下が気を遣うようになる。
それを避けるために言葉かけや態度で武も気を遣う。
「でも私は空気なの。そんな気を遣わなくてもいいんだわ」
一度だけ、忘れ物を届けに会社へ出向いた。
そこで待っていた夫は、かっちりと締めたネクタイに一筋の乱れもない髪。あの日家で仕事をしていた夫とは雲泥の差だった。
「そう。あの時は、とてものんびり仕事をしていたわ。……周囲に気を遣うの、本当は苦手な人なのよ」
……私が空気だから……
「だから私には、彼を誘うための香水もステキな服も、彼の唇を塞ぐためのルージュも必要ないの。……そう、貴女のような甘えた声も」
早苗の瞳はチューリップを通り越して、声しか知らない女性をぼんやりと映した。
「だって彼に必要なものは、そんなものじゃないのだもの」
つん、とつついた雌蕊には、まだねっとりと尾を引く粘りが残っていた。早苗はそれを指の腹でこすりながら、ぼんやりと呟き続ける。
「私は空気なの。そして彼も、私の空気」
仕事熱心な夫が職場で充分に力を出せるよう居心地の良い家という匣を整えながら、邪魔もしない。
武もまた、家庭を愛する早苗が気持ちよく過ごせるように、ほんの僅かに心を配る。
「私たちは空気なの。息苦しさを感じない関係をいつまでも続けていたいだけの、空気。
だからこんな電話をかけてきても、私もあの人もお互いを疑ったりなんかしないのよ。ごめんなさいね」
指の腹についていた雌蕊の粘りはすっかり取れた。
晴れ渡る空を見上げて早苗は、散ってしまった白い花びらが今はうっとりと青空に抱かれて漂っている姿を思って、微笑んだ。
-了-
読んでくださってありがとう(´▽`)
そっか、読み手の状態によって受け取り方が変わりますね
それでみなさん意見が様々だったのか(今さら気づいた^^;)
自分としては長く連れ添って空気のように一緒に居るのが当たり前の幸せに
時々気づかせてくれる嫌がらせのお電話…な感じだったのですが
上手く表現できませんでした><ハンセイですー
茎だけの花は、長年共に連れ添った人に対する気持ちを吸収させたものでしょうか。
きっと、若い頃は悩んだのだろうとか。
本当は、今でも苦しんでいるのだろうとか。
読者の立場によっても、変わっていく主人公の気持ち。
ただ、最後に微笑む早苗の顔には、幸せを感じていて欲しいと思います。
読んでくださってありがとう~(´▽`)
いやいや経験はご想像におまかせします(・∀・)
読んでくださってありがとー(´▽`)
空気って言えるのは、自分が息を継げる場所っていう意味でもあるのですよね。
そういうのを書きたかったんだけど、ちょっと実力不足でしたー
空気がないと窒息死するしかないし……
読んでくださってありがとう(´▽`)
簡素な会話も、薄いコミュニケーションも、長く連れ添った二人だから可能なのです。
お互いにわかり合っていなければ空気になんてとてもなれない。
ってのをイメージしながら書いたのだけどちょっと失敗した感じです~^^;
てへ♡
これが一人だと、ただの孤独な生活です。
二人で暮らしている事で、安心と安らぎがある事は
普段、実感する事なんてあまり無いだろうけど
大きな事なんでしょうね。
読んでくださってありがとう(´▽`)
はんなりとはまた風情あるお言葉をありがとうございます^^
長い時間の間に色々と紆余曲折あったら、
案外人は怒るより笑っちゃうんじゃないかな~とも思わないでもありません(どっちよ^^;)
ちなみにあたしは、オジサマと言えばジャン・レノが一番なのですw
読んでくださってありがとう(´▽`)
悲しませてすみません(´▽`;)
まぁ、こんな夫婦の形もあるかもねwという事で^^;
関係ないようだけど、チューリップの散った後の残された茎と雌蕊って、
艶っぽいですよね~ww
はんなりした文ですね~(^^)
長く夫婦生活続けようと思ったらこれくらいでないと。
でも大概は電話があったら怒りそう。
古いですが、ショーン・コネリーみたいな、年とってもセクシーな男性はいいですよね。
僕なら、この状況はオロオロしちゃうな…
チューリップ、見事です!
あれは散るのが早いですよね。
ねっとりと〜 の部分に、まだ女を捨て切れない業のようなものを感じてしまいました。
空気になっちゃうのって、どうなんだろう…
家庭を大切にしていて、理想的だけど、悲しい気持ちです( ・´ω・`)
読んでくださってありがとうございます(´▽`)
たまーに、そういうおじさまが居ますよね^^
「え? もう60? まだ40台でしょーー」みたいな。
わびすけさんも頑張ってくださいね(´▽`)
読んでくださってありがとう(´▽`)
深読み大歓迎ですww
女も男も無口な人ほど、何考えてるか解らない怖さってありますねぇ~
いや、この夫婦がそうだというわけではありませんが(・∀・)
アウアウ
あやかりたし^^
ざわりと揺れる葉、に主人公の心境のゆれを感じましたが、
とどめは、まだねっとりと尾を引く粘りの雌蕊、←@@タジタジ
空気のように平静を装っていても、抑制のある葛藤を感じた次第。
深読みだったでしょうか^^
読んでくださって、&ご来訪ありがとうございます(´▽`)
卵焼きは味噌汁に次ぐ家庭の味ですね。
甘かったり醤油だったりこってりしてたり出汁が利いてたり。
自分の味を皆それぞれ持っているものだと思います。
自分の味を抱えてお嫁に行ったら旦那さんは違う味の人で、
二人で喧々囂々言いながら夫婦の卵焼き、家庭の卵焼きになっていくんでしょうね。
そういえば昔漫画(タイトル忘れました)で読んだセリフがあります。
「箸で割るとふわりと柔らかくて中まで黄色い、幸せの味」
って、料理人の旦那さんに作ってもらった主人公(奥様)がww
それにしても、ぢょほほんさん、ご自分で毎日お弁当作られるとは素晴らしいです>▽<
元気でいつまでも、作り続けてくださいね^^
読んでくださってありがとう(´▽`)
19歳独身イケメンカップルは甘くらぶらぶでいいですね~♡
どうかその気持ちをずっと持ち続けていつまでも奥様と仲良く…
あ、独身設定でしたね^^;
あらー、素敵なお話でした。
ふんわりと良く焼けた黄金色の玉子焼きのような、甘くて懐かしいお話です。
・・・や、私は36歳独身愛犬家なので、俺も昔こうだったよなー、的な懐かしさじゃないですけどね。
自分は毎日お弁当を作って職場で食べています。
で、毎日玉子焼きを焼いています。
玉子焼きは毎日食べており、空気のような、とまでは言いませんが、自分にとってはあって当たり前のおかずです。
玉子焼きじゃないおかずに浮気したくなるときも、まあ、あります。
でも、やっぱり玉子焼きがないと弁当がつまらないしなあ。
玉子焼きが完璧に焼けるとなんだか一日がうまくいくような気がします。
毎日焼いていても、それくらい嬉しいです。
単純で毎日作っている玉子焼きでも、
砂糖と塩を溶かすお湯の配分を変えてみたり、
油を変えてみたり、
火加減を変えてみたり、
ひっくり返すのに菜箸だけじゃなくてヘラを使ってみたり、
創意工夫の余地はかなりあります。
まだまだあると思っています。
明日もきっと考えながら、私は卵を焼くでしょう。
そうだなあ、そんなわけで、
空気みたいっていわれたらちょっと残念に感じちゃうかもしれませんが、
玉子焼きみたい、って言われたら、ちょっと嬉しいかも・・・なあんて考えてしまいました。
うちですか
プリントカスタードに生クリームをたっぷりかけたような状態です
(19歳独身イケメン設定だけど)
とか思ってもまぁ許してやってください(´▽`)