Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


国語によって遠回り、でも再会して笑ったよ


テスト。国語。
生意気な子供だったので、
国語のテストのおしつけの問題、なんとなく、違和感が。
「このとき、彼がなにを思っていたか、次のなかから選びなさい」
「この行に出てくる、○○とは、どんな神ですか。」
読み方を強要されているようで。
読み方って、もっと沢山あって、いいんじゃないの?
みたいな…。

でも、何を書けばいいのか、選べばいいのか、テスト的には
合っているだろうと、わかっていたから、違うと思いながらも、
答えを書いている自分も嫌だった。

反動で、国語の教科書に出てくる作家たち、
ぜんぶ、読まなくなってしまって…。
逆に教科書に載らないような、作家ばかり
読みふけって。

おしつけをおしつけと思うこと自体は、そう悪いことじゃない。
ただ、それで、すぐれた作品を読まなくなるのは、間違えだと、気づくのに
ずいぶん遠回りしてしまった。

漱石、川端康成、宮沢賢治たち。

特に宮沢賢治。
小学生の低学年時の教科書にのっていた

「『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。」

あの水の感触。透明感。
大好きな文章だった。全集で、これに出会って愕然とした。
題名は、「やまなし」という。
大好きな文章だったのに、作者も題名もすっかり忘れていたのだった。
でも、まためぐりあえてうれしかった。
おかげで、それを好きだと感じて、頭のなかで水の映像を
つくりあげていた、小学生の自分とも会うことができたから。


ああ、なぜか「古文」はそのかぎりではなかった。
あれは、おもに文法とかのテストだったからかしら。
おしつけ問題がすくなかったような。
「伊勢物語」、西行法師「山家集」、「今昔物語」すきでしたねえ。

で、「やまなし」にめぐりあったときのことを、西行法師で。
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山」

思いがけずに、なにかと再会したとき、いつもこの歌が浮かぶのでした。




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