雁風呂、雁信、がちょうたちの便り
- カテゴリ:小説/詩
- 2012/09/23 10:40:00
家鴨と鵞鳥が、すきだということ、
前回、かきました。
それで、なんとなく、季語などや、古典で出てくる「雁」ということばに
敏感になってしまって、
みかけるたびに、しらべたり。
前回も、かきましたが、「雁」(かり)
という言葉は、雁(がん)と同じ字ですが、
がんだけをさすのではなく、秋から冬にわたってくる、
カモ科の鳥の総称だったそうなので。
(ガンもカモ科ですから、おもにガンとマガモなど)
そのなかで、とくに興味をひかれたのが、
雁信と雁風呂。
雁風呂とはおもに青森県津軽地方で伝わる風習だそうです。
ウィキペディアから、転載しますね。
「日本に秋に飛来する雁は、 木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の 海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を 渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであ るとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。」
実際は、雁が木片などをくわえることはありません。前掲のウィキペディアでも、
「海岸に打ち寄せられた流木、木片を見て津軽の人々が想いを馳せたとも、遠く都の人々が雁の渡りのことを考えて創造した話ともされるが、出所ははっきりしない。」
とあります。
砂浜に打ち寄せられた流木…、なにかそれだけで、遠いどこか、べつの場所からの誘いのようなものを感じます。それがさらに、雁がくわえてきたものであるとは…。
さらに春がすぎて、のこった流木をみて、もう、どこか、べつの場所へゆけなくなった、雁を想う…。それは、この場にすむ、自身の謂でもあったのでしょうか。
供養として、流木をもやす。それを旅人にふるまう湯とする。旅人は、雁の化身でもあるようです。どこか、べつの場所へ、かれらもまた、むかうのですから。
海岸で、やかれた流木。湯気と煙が空へのぼる。
雁がわたったあの空へ。
それは憧れや郷愁をおびて、わたしをも誘うのでした。
そして、雁信。
雁信とは、手紙のことです。中国の漢の時代、絹に書いた手紙を雁の足に結んで送った故事から。雁帛、雁書とも。
こちらも、その故事の解説を。
「中国漢の昭帝のとき、匈奴(きょうど)は漢と和睦(わぼく)を結んだが、漢の使者蘇武(そぶ)を捕らえ、武は死んだと言い張って帰さなかった。そこで帝は、庭園で射落とした雁(ガン)の足に、武の生存を伝える手紙を収めた帛(はく)(絹布)が結んであったと詐(いつわ)って、匈奴と交渉し、ついに蘇武は帰国することができた、と伝える『漢書(かんじょ)』「蘇武伝」の故事による。」
(Yahoo! 百科事典より。http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9B%81%E6%9B%B8/)
この故事をしるまえに、雁信という言葉だけ、先にしったので、なにか、投壜通信のようなニュアンスを感じたのでした。
だれかしらない、どこかへ、手紙を託す…。
それもまた憧れや希望、郷愁への便りのようで。
あるいは自分が書くものは、どこか、だれか、しらないだれかに
むけて書かれた、てがみのようなものだという思いがあって。
だから、余計に、雁信ということばに、ひかれるのでした。
今、これを書くにあたって、雁信をしらべていたら、万葉集で、こんな歌をみつけました。
春草を 馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は 宿り過ぐなり
(春、芽生えたばかりの若草を馬がくうという名の咋山(くいやま)から、
雁の使いが便りをもって来るというが、ここには来ないで過ぎ去ってしまった)
こんな時代から、つかれていた、おそらく密接に、という親近感。
ああ、それにしても、あひるやがちょうが、みたい。
うちに、ミニチュアの家鴨&鵞鳥の置物、
そして、等身大の、鵞鳥のぬいぐるみなどがあります。
後者は、首のところに棒がはいっていて、お腹で棒をいじることができます。
棒をいじると、首がうごく仕組みになっているのです。
横むいたり、おじぎしたり。
ひさしぶりに、首、うごかしてみました。
もうすぐ雁がわたってくる季節だなあと。
そうですね。鳥に対しては、やはり、空を飛ぶことから、離れている者への想いを重ねることが
今よりも、もっと多かったのだと思います。
そういえば、鳥の種類は違いますが、伊勢物語でも、京都から武蔵までやってきた男が、
都鳥(今のゆりかもめ)という、去ってきた都と同じ名をもつ鳥に惹かれて、
歌をつくるくだりがあったなあと思い出しました。
手紙は、空間的な距離も感じられ、筆跡や、えらんでくれた便箋、ハガキなどにも
ぬくもりをかんじますね。メールは便利ですが、なにかが失われているようでもあります。
雁風呂は、ほんとうに、ふしぎな、どこか優しい風習として、心にのこりました。
流木、あのなめらかな独特の感触もおもいだされて。
わたしもはいってみたいです(笑)。
ネットのつながった今とは違い、空間の隔たりをもっとリアリティを持って感じていたのだと思います。
私も友人と年に数枚の手紙のやりとりをしますが、メールをするときには空間的な距離を意識しませんが、
手紙のときには、今出せばあと3日くらいかな、などと考えるときに日本地図が頭に浮かびます。
海岸で一本一本流木を拾い集め、雁風呂で旅人をもてなす心意気、素敵ですね。
体の疲れだけでなく旅人の心の疲れも吹き飛びそうです。
『美の巨人たち』、ちょうどやっていたのですよね。うっかりみのがしてしまって。
ただ、あれ、BSで、後からやるので(10月21日)、今度は絶対にみます。
あの絵は、そうですよね、切手で有名ですよね。見返り美人図とともに。
以前、展覧会で、『月に雁』みたことがあります。
これがあの切手の絵か…と、実物のもつ迫力に、その動きの瞬間に、
目をうばわれ、感嘆しました。
若冲のえがいた雁、北斎のえがいた鴨なども、心にのこっています。
私は北斎がすきで、画集のたぐい、何冊かもっていますが、
画集、ぴんきりですよね。
安くて、お勧めなのは、
週刊アーティスト・ジャパンの「歌川広重」です。
こちら、広重はもっていないのですが、
北斎や、酒井抱一などは、図版もたくさんはいっていて、
説明もよかったです。
定価590円ですが、数年前の本なので、
古本屋的なところでしか買えないです。
ネットで検索したら、アマゾンなどで手に入るようです。
歌川広重の『月に雁』が取り上げられていたのを
思い出しました。
子どもの頃は『月に雁』というと
高額な古切手という印象しかありませんでしたが
今、改めて見てみると心に迫るものがありますね。
歌川広重の世界にすっかり魅了されて
画集が欲しくなってしまいました。。。
エリーさんのように、肌で自然を感じようとされている姿、とてもひかれます。
それは自然以外のすべてに対して、そうであるように感じられます。
こちらこそ、ブログ楽しみによませていただいてます♪
どうぞこれからも、よろしくです。
坂東玉三郎さんが、日曜美術館の酒井抱一の『秋草図屏風』の時に、
いっていた言葉を。
「沢山の修業をした中で無心になって、音楽でも絵でも、書いたときには宇宙から波がもらえて、非常に自然の草花のバランスと同じ作品ができるって、考えているんです。
ですから自然を何度みても飽きないし、深いし、慰められるじゃないですか。ですから充分な修業をして、それが一番大事なんです。」
だから、自然をみていると、感動するのかと、教えられたのでした。
松岡正剛、買いました。が、まだ読んでませんでした^^
近々読み始めますね。
プログラム、という観点から、花鳥風月をとらえるのは、新しいですよね。
そこ、「雁風呂」という風習、プログラムにいたるまで、たしかに
ふりつもったなにかたちを想うと、人々の心の形が、みえるようですよね。
いつごろ、できた言葉なのか、わからないのですが、
今よりも、もっと、別の土地にゆくのは、困難な時代だったことは確かでしょうし。
そこで生活している彼らが、雁や旅人にどんな想いを寄せていたか…。
わたしも「雁風呂」は、数年前に知った言葉です。物書きなかまで、俳句をやる女性が、
同人誌に、「雁風呂」という題名で、俳句と散文をまぜた作品を発表していて、それをみて。
旅人の湯にしたという「雁風呂」の風習がある地で、みつけた流木から、
亡父を湯灌した記憶と重ねてゆく、そんな内容でした。
自然の流れについては、そうですよね。
わたしは、たとえば以前は、漢字辞典とか、広辞苑とか、つかいましたが、今はネットで検索してすませてしまう。
便利になりましたが、その分、すぐに忘れてしまうようになったきが。
漢字辞典、ひらくのすきだったんですけどね。象形文字とか、象や亀、人、木、もとのかたちを思い浮かべたり、
嫐(なぶ)る。嫋(たおや)か。すごい字だなあとか。
そうしたことと、通じると思うのですが、
天気も、天気予報きけば、すむようになったぶん、自分で感じることができにくくなってしまった。
昔の人は、自分で天気予測しないと、死活問題にもなるから、肌で感じざるを得なかった…。
食べ物とかも、一年中、多くのものは食べられるようになったから、
ありがたいといえばありがたいけれど季節感が希薄になってきている…。
けれど、わたし、花をみにゆくのが好きで、すこし前なら、朝顔市、ひまわり畑、来週位には、ヒガンバナの群生、
ススキの草原…、通年中、花の名所にいったり、植物園にでかけているのですが、そこには多くの場合、たいていかなりの数の観光客が。
むかしは、うるさいし、うざいなあと思っていたのですが、今は、みんな、季節ごとの自然とせっしようとしているのだなと、親近感をもったりしています(といっても、うるさいとやっぱり、いやですけど^^ 花みにきたのなら、しずかにみてよ~みたいな)。
暑さ寒さも彼岸まで、ですね。
めっきり、秋めいてきて。
初雁は、まだでしょうが、蜻蛉がたくさん、みられるように。
うちの近くの公園の田んぼも、稲穂をたれていて、もう刈ってもおかしくないぐらい。
うごくには、ちょうどいいぐらいですね。
でも冬は苦手なのでした。
特に「雁風呂」は面白いですね。
うみきょんさんの死んでしまった雁に自分自身を投影するという解釈に心打たれました。
飛ぶものへのあこがれ、というのは、
常に飛べない自分を思うことでもありますものね。
以前、日記に紹介したのですが、
松岡正剛の「花鳥風月の科学」という本に、
花鳥風月というのは、日本人が自然の流れを察するプログラムであった、と書いてあって。
つまりそれは、日本人のコミュニケーション=情報の取り入れ方・発信方法であったと。
しかし、そういう大きなプログラムが総体として構築されるまでには、
雁を思う人々のひとりひとりの思いがあって、
それが降り積もって、「雁風呂」という風習にが形作られていったのだろうなあと思います。
一見奇妙に観える風習ですが、なにか人々の心の形が見えるようで。
もちろんバリバリ現代っ子の私も含めて、自戒を込めてですが。
現代においては自然の流れを見つめるということって、ほとんど無いか、ただのモノ好きという感じですよね。
情報化社会と言われているのに、一番身近な情報の媒介物を忘れているんです。
農業のお手伝いに行った時、天気の予報は、雨雲レーダーの情報をずっと見ていて。
昔の人は、ただその体だけでこういうことを察したのかなと考えると…
ずいぶん遠回りして同じ場所に戻ってきただけなのかなと思ってしまいました。
うみきょんさんの日記、いつも感じるところが多くて、楽しみにしています!勉強になります。