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アルジェリア政府が急速に軍事行動を行った理由2


第一に、アルジェリア政府とイスラーム過激派の関係があります。もともと、アルジェリアを含むマグレブ(北アフリカ)諸国では、独立後に世俗的なエリート層とイスラームの影響が強い一般市民の間の文化的亀裂が鮮明でした。アルジェリアの場合も、政治家、大企業家、官僚、軍高官などの支配層は旧宗主国の言語であるフランス語を日常的に話しますが、一般市民の間ではアラビア語が一般的です。この文化的な分裂は、1990年代により大きくなりました。1991年、アルジェリアで初めて行われた複数政党制に基づく議会選挙で、イスラーム的な価値観を打ち出したイスラーム救国戦線(ISF)が勝利しました。これに対して、伝統的に世俗主義な軍部が介入し、選挙結果を無効化したのです。その後の混乱のなかで、当時のシャドリ大統領は辞任に追い込まれ、過激化したイスラーム主義者のテロ攻撃と軍部の弾圧の応酬の悪循環に陥ることになりました。少なくともアルジェリアでは、イスラーム過激派の台頭が、世俗的な権威主義体制への反発によって促されたといえるでしょう。

その後、アルジェリアでは1995年に大統領選挙が、1997年には上下両院の選挙が実施され、文民統治の形式がととのいましたが、軍の影響力が強いことに変わりはありませんでした。1999年に就任した、現在のアブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領も、軍を主たる支持基盤としています。ブーテフリカ大統領は、2005年に「国民和解」を掲げ、過去の暴力的衝突に関する免責を条件に、各武装組織に武力行使の放棄を求める「平和と国民和解のための憲章」の是非を国民投票にかけ、97パーセントの支持を得ました。

ところが、多くの武装組織がこれに賛同したなか、この提案が「軍の責任を隠蔽するもの」と批判して拒絶したのが、厳格なイスラーム主義を奉じる説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団(GSPC)でした。翌2006年、GSPCは国際テロ組織アル・カイダの傘下に入ることを発表し、イスラーム・マグレブのアル・カイダ(AQIM)と改称。以来、AQIMはアルジェリア南部のみならず、マリ北部、さらにニジェールにまたがる一帯で武装活動を展開しており、ブーテフリカ政権にとっては国内の最大の敵と言っていい存在になっており、今回の事件の首謀者モホタール・ベルモホタールは、その分派とみられています。
政権の存在理由としての反テロ

ところが、AQIMなど武装活動を続けるイスラーム過激派の存在は、ブーテフリカ大統領にとって自らの存在理由でもあります。原油・天然ガスの価格高騰を背景に、産油国アルジェリアには大規模な投資が海外から相次ぎ、これにより経済規模は急激に拡大しました。世界銀行の統計によると、2001年に6149ドルだった一人当たりGDP(購買力平価)は、2005年に7169ドルにまで急伸。これと並行して、ブーテフリカは1000以上の国営企業の民営化を進めるなど市場経済化も進めてきました。ところが、他のアフリカや中東諸国と同様、アルジェリアでも資源収入に関する透明性は低く、政府高官らによる汚職が蔓延しているだけでなく、海外からの急激な資金流入によってインフレも進行。やはり世界銀行の統計によると、リーマンショックが発生した2008年には15パーセントだったインフレ率が、2009年には-11パーセントになりました。

物価の乱高下は市民生活を直撃し、政府に対する不満は高まりました。その一方で、ブーテフリカが二期目を目指した2004年の大統領選挙で、対立候補のアリ・ベンフリ元首相を推したとみられる軍の幹部たちが、選挙後に引退や降格を余儀なくされた頃から、その独裁化が顕著になっていきました。2008年には、大統領三選を禁じた憲法条項を修正する提案を国民投票にはかり、これが成立したのです。一連の投票では、政府や軍、警察による野党陣営への嫌がらせや妨害が頻繁に行われ、民主的とはいえないものだったといわれます。

そんななか、2010年12月に隣国チュニジアで発生した抗議活動を皮切りに、中東・北アフリカ一帯に広がった政変「アラブの春」が発生します。アルジェリアでも、市民の抗議活動が首都アルジェなどで拡大しました。これに対して、ブーテフリカ政権は食糧などの税率を軽減して市民の不満の緩和を図り、2011年2月には19年間続いてきた、当局の承認なしのデモなどを禁じた「非常事態法」も撤廃するなど、一定の配慮を示しました。ただし、その後「反テロ法」が改定され、これに基づいて抗議活動を行う若者たちと警察の間の衝突は絶えず、政権批判は実質的に力ずくで押さえ込まれてきたのです。

以上に鑑みれば、経済成長を実現しながらも貧富の格差は大きく、さらに独裁化傾向を強めたブーテフリカ政権にとって、「テロリストに厳しく対処して公共の治安を守る」ことは、自らの支配の正当性にとっての生命線だったといえるでしょう。その観点からすれば、今回の実行犯が宿敵AQIMに繋がる人間と妥協することは、ブーテフリカ政権にとってほぼ不可能でした。人質の生命や安全を後回しにしてでも掃討作戦に踏み切ったことには、政権自身の延命という側面があったといえるでしょう。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20130119-00023139/


 

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