★　恋しきは人肌の　★



おやお客さんいらっしゃい。
今夜はやけにお早いですねぇ。久々に残業なしですか？
ほう、会社の設立パーティーでしたか。そりゃぁおめでたい。
はい？　疲れた？
まぁ課長にもなれば上の人と下の人が一緒くたで呑むような席は気疲れもするんでしょうね。
で？　酒と肴はどんな按配だったんで？
ホテルの立食パーティーですか。和洋折衷取り混ぜで？
それゃぁいいなぁ。
会社も大盤振る舞いでしたね。いいモンたくさん呑み食いできたんじゃないですか？
はぁ、それよりうちの燗が恋しかったですか？
へへ、照れますねぇ、光栄ですよ。
じゃぁ早速いつもの呑いますか？

「一ノ蔵　無鑑査」

宮城の酒なんですよね。さっぱり呑みやすくて嫌味がなくて。
燗でも冷でも、呑り方はもとより大抵どんな肴にも合ういい酒ですよね。
何てったって値段がお優しい。

さて、燗をつける時は十分に沸いた湯が暴れないように弱火にしてからゆっくり徳利を入れましょう。
そん時にこいつ、桧の棒を一本指してやると何とも言えない香りの良い、まろやかな風味が増すんですよねぇ
酒の表面に小さな泡がひとつでちょうど人肌。
ふたつ、みっつでぬる燗。
これ以上つけちまうと熱燗になっちまう。急いで取り出して、さぁどうぞ。
猪口はね、焼き物でもうわぐすりを使っていない素朴なやつがいいですね。
何でも、陶器に含まれる磁気が二日酔いを防止してくれるんだそうで。
まぁ度を超えて呑んじまったら意味ないですが。

何か召し上がります？　あぁパーティーで堪能しましたか。
でも何もつままないで酒だけ呑ってると胃に優しくないでしょう。
よかったらこんなのでもどうぞ？
えぇ梅干しですよ。
こいつがね、美味いんですよ。ほら、口が歪んじゃうくらい酸っぱいでしょう？
最近は蜂蜜漬けだとかって全然酸っぱくない、甘いくらいのやつが高級品なんて出てますけど、
あたしはやっぱり田舎のばあちゃんが作ってくれたような酸っぱいのが好きでねぇ。
大き目の梅をじっくり漬けて、ぶにゃぶにゃの果肉にしたたる汁。もう最高ですね。

何年か前にドライブで行った先で見つけましてね。
買ってその場でつまんだらこの味でしょう。
もう懐かしいやら美味しいやらで、それ以来この梅干しが切れるとそこまで飼いに行くんですよ。
片道二時間くらいかなぁ。
え？　場所ですか？　ふふっ、それは企業秘密ってやつですよ。
これであと、烏賊の塩辛のいいヤツでもあれば言うことないんですけどねぇ。
残念、今日は切らしちまってるんですよ。
美味い烏賊の季節だもんで人気者でね、たくさん買っておいてもすぐ売り切れちまう。
たくさんって言っても頑固な職人さんの店だもんで、そんなに買えもしないんですがね。

梅干しだけで十分って？　そりゃありがとうございます。
そんなに気に入っていただけたんなら、こいつ売ってる場所のヒントだけでも差し上げましょうかねぇ
「紅葉で有名な渓谷」ですよ。
そんな場所、日本中に何百あると思ってるって？
こりゃヒントになりませんでしたかね、失礼。
はい？　燗をもう一丁？　ありがとうございます。
え？　梅干しももっと？
こりゃ、うちの人気者がまた増えましたかね。