那智のおはなし
- カテゴリ:その他
- 2013/02/23 19:25:03
いにしへの なきちにつどふ たましいは さくもさきがけ ちるもさきがけ
今は「花」といえば桜ですが、昔は梅のことを指していたそうですね。梅は、春の先駆け、花の魁、と呼ばれるように、春になると真っ先に咲く、大変縁起の良いはなとされていました。では、それがどうして桜に変わったのか。そこには、こんな昔話があったのです。
昔、紀伊の国に「梅野一族」という集団が暮らしていました。
一族はどの権力にも属さない一族で、争い事を好まず、平穏に暮らしていました。しかし、いざ戦となれば、無類の強さを誇ったのでした。
一族の合い言葉は「梅が花の魁ならば、我らの命は武士の魁」
時は平安。武士の台頭とともに、世の中の情勢が動こうとしていました。梅野一族には、朝廷からの臣従を求める使いが何度もやってきましたが、一族は丁重に断り続けました。
朝廷の大軍が、一族の村に押し寄せてきても、そのたびに一族は圧倒的な兵の強さと見たこともないような戦術で、朝廷軍を追い返しました。朝廷軍は梅野一族の強さに恐れおののき、「梅」を連想する「花」という言葉の使用を避けるほどでした。都の人々は、「花は桜」と言い聞かせ、梅の花を忘れようとしました。この頃から、「花」と言えば「桜」というようになったと言われています。
梅野一族の強さに業を煮やした朝廷は、力攻めを断念し、村の水源に毒を流しました。そして、里の周りを大軍で囲って飢え死にさせようとしました。 これには打つ手なしの一族。兵の体力は日に日に落ち、ついには餓死者も出始めました。そのとき、朝廷側から、臣従の使者が再び訪れました。
ついに降伏することとなった一族は、女と子供を、抜け道を使って村の外に逃がしてから、村の門を開きました。
しかし、朝廷の軍は、村に入るなりあちこちに火を点け、略奪や一族の虐殺を行なったのでした。一族が降伏する直前、一族が二度と兵を起こせないように、根絶やしにしろとの命令が下っていたのです。
それを知った一族は、烈火の如く応戦、反撃しました。しかし、不意をつかれ、散り散りになった一族は、一人、また一人と倒れて行くのでした。最後の一人になっても戦い続けた一族。最後の力を振り絞って戦いましたが、ついに「我らの命は武士の魁」と叫びながら力尽きました。
一族の死者は150人。朝廷軍の死者は、500人を超えたとの記録が残っています。
この顛末を遠見の兵から聞いた一族の女子供たちは、声を押し殺して泣き続けました。何日も水を飲まず、つばさえ出なくなった体でしたが、涙だけは目からあふれてくるのでした。 涙が枯れても、まだ泣き続けました。 やがて、血の涙を流すものも現れたといいます。
このことから、この場所は「なきち」と呼ばれ、後に那智と名を変えました。
翌年の春、朝廷の都では、異変が起きていました。町中の花という花が咲かないのです。翌年も、その翌年も咲きませんでした。
「花の先駆けの梅が咲かないから、どの花もさけない。梅が咲かないのは、毒を流して騙し討ちにした梅野一族の呪いではないか」と人々は梅の一族の呪いだと恐れました。
そこで朝廷は一族を丁重に葬り、一族の武勇をたたえて上記の歌を詠み、永遠の名誉を認めました。すると、翌年からは一面に梅の花が咲き誇ったのでした。
また、戦で毒を使うことは最大の禁忌とされ、その後、約1000年間、近代になるまで、日本の戦で毒が使われることはありませんでした。
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はい、ご当地の方、すみません。
相変わらず私の勝手な作り話です。
先日、和歌山を観光したので、その記録として。
また飲みたいなぁ^^
和歌山 行かれたのですね。
私もお友達がいて、4年前かな、初めて行きました。
グリーンソフト 美味しかったな(*´m`)
作り話なのですね?
和歌山観光はいかがでしたか?^^