Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


かわいい江戸絵画展 その4


 「健気なもの」では前期の白川芝山《月下雪中郡雀図》。雪の積もった梅の枝ごしに大きな満月、ふる雪。そして枝の下に雀たちが身体をよせあって寒さをしのいでいる。後ろ姿なのが、よけいに想像をかきたてるのかもしれない。これはけれども、わたしのなかでは「健気なもの」というより、いとしいもの、に近い感情がある。そして雪降る中、なぜかぽっかりうかんだ月のもたらす静けさ、その冷たさ、それらをどこか雀たちが見入っているようで、かわいいを超えて、絵はわたしにやはり憧れににた何かを語りかけてくれるようだった。
 このカテゴリーでは、後期の英一蝶《瀑布獅子図》が、文字通り健気に見えた。石の上で滝行をしている一匹の獅子。うなだれたような姿の頭の上で、滝が二股にわけて流れ落ちる。獅子は聖獣としての描かれ方(乱暴なたとえだけれど狛犬のようなあれ)だけれど、無表情な姿で、背中を丸め、頭をたれている姿が、どこか反省しているようで、心配してしまいたくなる。こちらもいとしい、という思いをもたらすものだけれど、やはり健気な姿に、傘でもさしてみたくなる、なんというか、こちらの心を獅子にむかわせる、その方法がやさしさに満ちているのだった。

 この章では、あと「慈しみ」(円山応挙、森狙仙など)、「おかしさ」(円山応挙、歌川国芳など)、「小さなもの、ぽつねんとしたもの」(長沢蘆雪、円山応挙、池大雅など)などがあった。円山応挙、長沢蘆雪は別の作品で触れたいので、省略する。「小さなもの…」の、与謝蕪村《蛙図扇面》(後期展)にふれてみたい。扇の中央に、墨で、ちいさく三匹の、後ろ向きであろう、デフォルメされつくした蛙。絵がすごいというのではない、これは句があるからこそのものだ。扇右に「居直りて孤雲に対すかはずかな」。扇が空になったかのような、そのなかでぽつねんと、孤であることで通じるような、あるいは扇が入口で、そこから深遠をのぞいたような。言葉と絵が対になって(孤雲とぽつねんとした蛙が対であるように)、わたしたちを空にむけてくれるのだった。
 図版カタログには蕪村(一七一六─一七八三年)の活躍した十八世紀は「動物に人と同じような心情を見い出し、文芸に表現するようになった時代でもある」とある。動物に心情を重ねる、この描き方は、わたしのすきなグルジアの画家、ピロスマニ(一八六二─一九一八年)にもいえることではなかったか…。そういえばピロスマニの描く動物たちと、この「かわいい江戸絵画」に出品されている作品にはほかにも共通性がある。それはともするとぎこちない、稚拙だといわれるかもしれない描き方だ。いや、共通点はもっとあるかもしれない。さきほどの窪田雪鷹《駱駝図》の、さびしいようなかなしさも、彼と通じる。そして同じくこの章、「純真、無垢」の英一蝶《柳牛牧童図》。川辺の柳の木に二頭の牛がつながれている。一頭は後ろをむいて、もう一頭は正面をむき、足を折って地べたに伏せて眠っている。牧童も二人。ひとりは柳の木のほらにすっぽりおさまって眠っている。もう一人は木にのぼり、枝にすわって笛を吹いている。背景には入日。墨とうっすらとした青が基調なので、ほとんど墨一色にみえるけれど、夕日が赤い。「純真、無垢」にあてはまるかどうかわからなかったけれど、ただただ静かだった。静かななかに、笛の音だけがひびきわたる。正面をむいてとじた牛の目、一日のおわりの平穏さ。「牛の背に乗り笛を吹く牧童は、世の中が泰平であることや心の平安を表す定番の画題で、この絵もそのバリエーションのひとつだろう」とあったが、平穏さがどこかさびしいのだった。それは無垢のもたらすさびしさであるかもしれない。そしてわたしがピロスマニの絵に感じるのも、さびしさだった…。なぜさびしいのか。それは郷愁めいてもいる。あらかじめうしなわれた世界への誘いとして、共鳴するなにか…。それは幼年であるかもしれないが。いや、わたしがそれを見い出しているのだ。動物に自身を投影するように。

 さびしさから少し離れよう。あるいはピロスマニから。「感情のさまざま」の最後は「微妙な領域」。
 仙厓義梵(後期展)、《豊干禅師図》。ところでこの豊干禅師は、後でもでてくるので、説明したいが、中国の唐時代の僧で、虎を手なずけて背に乗ったという。悟りに達して虎をも御した僧ということで、これを画題として描いたものは多いそうだ。虎に乗っていたり、虎と眠っていたり。さらに「四睡図」というものもある。これは豊干禅師と、その弟子である寒山・拾得の三人と虎が眠る姿を描いたもの。
 仙厓の《豊干禅師図》は、虎に乗っている。真正面からとらえたもの。これは…なんといったらいいのか。図版には「ゆるい」とある。子供の描いたような不確かな輪郭。へたうまというのか…。仙厓義梵(一七五〇─一八三七年)は臨済宗の僧。現在残る彼の絵の多くは、禅、仏教の教えを人々に伝えるために描いたものがほとんどだという。おそらくわかりやすさ、垣根の低さとかが関係しているのだ。けれども、どうだろう。ほとんどあっけらかんとすらした、やさしさ、いつくしみにあふれた筆に、おもわずひきこまれてしまう。彼の絵は、この章のほかでも数点出品があったが、つい顔がほほえんでしまうものが多い。絵をみながらほほえんでしまうことなど、ほとんどなかったことだ。これもまたひかれるということなのだけれど、この体験はほぼはじめてではないのか。《豊干禅師図》の虎は、もはや虎であることをほとんどやめているようだ。虎だかなんだかわからない。まるいMのかたちの胴体に、縞模様。両端にまるいみっつの指をもつ足、そして真ん中に釣り目ではあるけれど、落書きのようにおおざっぱな顔の虎。そのうえにのっかっている豊干禅師の夢みるような、ほうけた顔。




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