Nicotto Town



時には昔の話をしてみようか


 同時代を生きた人なら、1968~1970の高度成長末期と、1989~1991のバブル経済時代、違う意味合いではあるが、それぞれ、熱狂の時代だったと言うだろう。
 バブル伝説は、今も、いろいろ流れている。宴会後、タクシーが捕まりにくく、少しの車の隙間に万券を押し込んだとか。会社によっては、ボーナスを銀行振込でなく敢えて現金支給にし、業績を上げた部長は、ピン札で豆腐の厚さの万券をもらったとか。パチンコに一発台というのがあって、20万単位で勝ち負けしたとか。すべて事実である。なぜって?オレは、すべて目撃したから。ちなみにオレのボーナスは、厚さ1センチいってなかったですけどおww
 バブル時代は良かった。あれは何だったんだ?多くの人は言う。でも、オレにとっては、そんなに重要な時代とは思えない。
 むしろ。1968~1970の方が、オレにとってはエキサイティングだった。
 ググって書かないので、不正確だが。
 いわゆる70年安保闘争の時代である。もちろんオレは子供だったので、デモ隊に参加したわけではない。しかし、バリバリ全共闘のお兄さんが裏に住んでいて、新宿に連れて行ってもらい、駅前でデモ隊が機動隊に火炎ビンを投げつけている光景を目の当たりにした時は、はっきり言って、感動した。
『ぼくも、闘士になって革命を起こすんだ』と、ガキのオレは心に決めた。
 1969年には、東大安田講堂事件があり、前代未聞の、入試中止となる。
「いくら勉強ができても、今年は東大には入れない。学問するために大学に入っても、戦争に取られて戦死するのもいる。運だな、運」
 家が貧しくて高等小学校しか出られなかった親父が、しみじみ言っていたのを覚えている。
 ちょうどその頃ではなかったか、『さとうきび畑』の歌が流布したのは。オレは、もっぱら反戦歌を愛する小学生だった。
 一方で、1970年に開かれた大阪の万国博覧会に連れて行ってもらい、親類の家に滞在して、約1週間、見まくった。人類の進歩と調和、がテーマだったが、今思うと、あの時代は、明らかに、米ソ中心の時代だったのだ。間違いない。
 そして、1970/11/25 ノーベル文学賞候補作家三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、自決。文学少年のオレは、不覚にも三島の名を知らず地団駄を踏んだが、翌日、オレも勝手に決起し、小学校の屋上に至る小部屋を占拠した。が・・・。
「A君、給食食べられなくなっちゃうよ」
 担任の先生(美人)の説得に敢え無く降参したwww
 1970以降、学生運動は、先鋭化暴力化専門化し、一般学生はついて行けなくなってしまったと、オレは後日、お世話になった先生から伺った。
「その過程で、心に傷を負ってしまった奴の、何と多いことか」
 先生は、そんなことを仰っていらした。
 事実、1972(?)の連合赤軍あさま山荘事件の事実が明白になり、正義(粛清)の名の下に人の命を奪うことの恐ろしさが報道された。
 それでもオレは、闘士になることを夢見ていた。バリバリのコミュニスト少年だったのだ。
 しかし。
 オレの熱は、ある作家によって、一気に冷めた。
 太宰治。
 彼も、コミュニストだったのだ。
 オレは、新潮文庫版の太宰作品はすべて読破した。そして、以下のように結論づけた。
「オレは、小学校卒業前に、死ぬ」
 またまた勝手に決めていたが、小学校の卒業式はあっさり終わって、何も起こらない。
 オレは思った。
『ああ、人間の予言なんか、あてになんないや』
 ゆえに、1999年に、全くあたふたせずに済んだのだ。
 かくして、闘士になりそこね、サラリーマンに飽きて事業を起こし、12年前に失敗して無一文になったオレの、残りの人生は・・・。
 どうやら、闘士が必要な時代じゃん??
                                       了





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