いい嘘 ってなんだろう。
- カテゴリ:30代以上
- 2013/05/08 22:28:26
いい嘘というのは存在するのか。
ソクラテスの命題。
『病気の友人に、彼は病気でないという「嘘」をつくのは悪いことか』
という命題がずっと気になっていた。
嘘はなぜ悪いことと言われるのか。嘘とは正直でないことであり、論理の破綻がそこに発生する。事実や他の人の行動に対する嘘は、それを見ていた他の人の言うことと齟齬が出る。結果的に信用をなくす。
自分の気持ちに嘘をつけば、それは結果的にまわりに誤解を与え、最終的には自分の状況に跳ね返って来て、状況と自分の気持ちの違いを生み、大きなストレスになっていく。
まれに嘘を重ねて論理の破綻を繕う人もいるが、それもいつかは限界が発生し大きな信用の低下やストレスを招く。
僕は善悪の判断というのは、難しい問題だと思っている。しかし自分に跳ね返ってくる利害の問題ととらえれば単純化出来るのではないかと思う。
「いい嘘」や「悪い嘘」というのは存在せず、嘘という論理の破綻は、時間を負って影響が広がり深くなっていく。それは自分の利害にとって損になる場合が多いということとだけ解釈しておきたい。
ソクラテスの命題は、命という有限性の時間が限られているケース、また友人という、その影響が許容可能な存在であるため、影響が限定されるケースという風にも思っている。
*告知などで深く悩まれた方もいらっしゃると思います。配慮したつもりでいますが、不快感をもたれた方がいらっしゃったら申し訳ありません。なお、自分は十数年前父ががんで亡くなったときには告知しなかったという経験があります。
追記:
別ブログにもう少しまとめたほうがいいと思っているが、善悪について。
善悪については、モラルやマナーや法律をいい悪いの基準にする人もたくさんいる。僕自身は、自分にとって利益があるかないかで定義している。
ソクラテスの命題は病気を癌とすれば告知の問題になる。癌の告知の問題については15年前は告知するかしないかが大問題だったが、今は告知が当たり前になりつつある。病院が告訴されないためと言われている。また、家族側が告知しなかったこと、または告知したことへの罪の意識を低減するためとも思う。
時代が変われば善悪の基準も変わるなと思っている。
ほとんどの人、自分も含めて自分が心地よく感じる、自分がいいと考える、ストレスにならないことが、「いいこと」として判断されるようである。
これは利己主義というだけでなく、自分の奥底にひそむ利他の精神を満足するという利害調整でもある。
赤信号をわたることが悪いことなのは、ルールを守らなければ、自分の所属する社会の利益が確保されず、結果的に自分の安全が確保されないから悪いことことなのである。
けんかが起きるときは、自分のいいことと、相手のいいことが相反するとき、利害の相反が発生するから争いになる。
僕は戦争が大嫌いだし、誰もが悪いことと思っているが、戦争中の兵士達は自分たちの国や家族を守るため、それがいいことと思って戦っている。
情けはひとのためならず。少しずれた意味かもしれないが、僕は「いいこと」とは自分が満足すること。それは、周りが満足し喜ぶことで自分が満足すること、周りの人間が自分を満足させるような気持ちにさせることも含めて、「いいこと。」「善」として定義している。
そして、この利他の精神がどれだけ広範囲か、友人関係だけか、共同体か、国家か、世界か、どれだけ時間的に広範囲か、そのときだけか、中期か、長期か、死ぬまでか、歴史的にか、といったのが人間の器なんだな。と思っている。
その定義のもと、自分が死ぬまでの長期的な視点で考えて行くと、いろいろな可能性がある中では、嘘というのは基本的には悪影響であり、いい嘘は存在しないとも言える。人間関係は基本的には2者間でなく多数者間である以上、長期的な未来については予測不可能である。嘘はつかずに正直に生きて行くのがいちばんであり、嘘をつく必要があるような追いつめられたケースでは黙っているか、正直ではあるが抽象的な表現で回答するのがよいのであろう。
うちの猫は、えさを求めるときのみニャーンと可愛く鳴き、すり寄ってくるし、抱き上げると常にゴロゴロと喉を鳴らす。
普段は寡黙で嘘はつかない。
魅力的な人生の師である。
ま、くどくどと、素直に生きるのが一番いい。ということを申し上げた次第であります。
もっと照れちゃいます。(笑)
照れちゃいます。
そうですね。人生の評価は他人ではなく自分でしかできないことで、良かろうが、悪かろうが、結局自分がどういう気持ちでいれるかですもんね.
自分自身が正直であると言う事はとても気持ちがいい事で、多分、お金がある事よりも気持ちがいい事なのだと思います。
単純だけど気づかない事なんでしょうね。
あ、お返事遅れて申し訳ありませんでした。
素直、は何か綺麗な言葉な気がします。
難しいテーマですね~。Aさんには嘘、Bさんには正直に、という使い方が良いと思うので、
全員に当てはまらないところが難しい。
嘘をつかなければ、正直であれば何やったっていい、という形もどうかと思うし。
難しいけど・・・。
自分の経験では素直に、正直に生きるのが
たとえお金がなくて、結婚が出来なかったり、
だまされる人生でも、良い人生だと思います。
相手にとって利益になれば、それはいい嘘だと思いますよ。嬉しくなったり、心地よくなったり。
もちろん、自分も相手もWinWinならば、かなりいい嘘だと思いますけど。
お互いが分かり合っている関係を構築しないと、難しいですよね。
「嘘とわかっていても指摘せずその嘘を受け入れられる。」というのは、口で嘘を言ってても、言いたいことは伝わっている訳だから、もう、それは「嘘」とはいえないのかも。
「僕の奥さんへの愛はメダカの涙よりも熱い。」
なんてね。
・・・・なんのこっちゃ。
その「これが良いという基準」という考え方は面白いですね。
少し外れると、取り込むかー。
僕は基準の内側にあるのが「いい」で、大きく外れているのが「悪い」で、その中間地帯にあるのが「好奇心」なんじゃないかな。と思います。
自分の「いい」の基準に近いものは、好奇心が生まれて、見に行って、自分の価値観にあっていたら取り込む。悪いと思ったら、悪いの基準線をそこまで持ってくる。
で、いいの価値観がかさなるところに常識が生まれ、少人数の悪い行動との境界に罰が生まれ、法律ができていくのかな。
むかし、似たような話で、笑いについて考えていました。
自分の価値観や経験の範囲内だったら、つまんなくて笑わないんだけど、ちょうどいいくらい外れている事象や言動を経験すると笑う。大きく外れていると驚いたり、恐れにつながる。そして全員の価値観といい感じのずれだと爆笑になる。
笑いって好奇心を周囲の人間と確認する手段から発達した表情だと僕は思うんです。はっはっはっはって何度もうなずくでしょう?
多分、僕だけの持論ですが。。。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=691319&aid=23136336
そうですね。生命や動物の本質として自己防衛機能が第一だと思います。
でも、家族への愛情が勝つケースもあって、家族を守って自分が死ぬ。という人たちも結構います。
おっしゃる通りで、理性的な善とは想像力豊かな人ほど広く深いのだと思います。
しかし、バランスがいいのはやっぱり、周りの人に対して強い利他の精神を発揮して、遠くに行くに従って薄くなっていくほうが「いい。」気がします。
地に足がついた幸せな人生だと思います。
嘘をつく側よりつかれる側で変わってくるのでは?
嘘とわかっていても指摘せずその嘘を受け入れられれば
それはいい嘘
だめかな^^
人にはそれぞれ、「これが良い」という基準があり、
様々な状況、接する相手により、
行動をその基準からはずし、調整をしていく。
その外れ方が小さい相手や環境に対しては「良い」と判断し、
大きく外れるものに対しては「悪い」と感じる。
そしてある程度の個人差はあれ、
大多数の人が良いと思うものが「常識」と呼ばれるようになったり、
それを守るためにルールが作られる。
人類の長い歴史の中では、ルールや法律よりも、
善悪(?)が先に来ている可能性も否定できない気がしますね。
自分の生命の保全が確保されることが
まず第一の善とされるものかなという気がします。
こちらは本能が担当かな。
海馬扁桃体の役目のような気がします。
それ以上の範疇を超えるものについては
きっと理性がつかさどるのでしょうか。
前頭葉の守備範囲かな。
それはきっとてらもっちさんが上記でおっしゃった
国家、世界、長期的、短期的、歴史的に善かということな気がします。
ということは理性的な善とは想像力豊かな人ほど
守備範囲は広くなりそうですね。
思いつきで書いた戯言です。
失礼なこと書いていたらすいません(・_・;)
幸福感を感じていただき、なんというか、ありがとうございます。
書き直すより新しくブログを作られた方がいいのではないでしょうか。今度は公開で。
期待しています。
とハードルをあげてみたり。。。。(◔‿◔。)
問題提示というのは大きな力ですよ。
よく自己実現のセミナー(自分は参加したこと無いですが。)では、問題解決能力。次に問題発見能力。
そして、その次に問題創造能力というか課題を提示する能力が問われます。
今ある枠組みの中をはみ出た課題を提示するというのは、新しい枠組みを作って行くことだと思います。
ベストの選択かどうかはともかく、今の自分は過去の自分の選択によってあるわけで、過去の自分の選択を憎む必要は無いと思います。今、これでいいんだ。と思えるように毎日進んで行くというところは、全くその通りと思います。
あのときこうしていたら、と思うのは想像でしか無く、今の自分には結びついていないですし、自分の選択だけでなく環境要因もありますから、その通りになっていたとも思えませんよね。
戦争。大変なテーマであります。
命は大切だけど、命よりも大切な何かがあると思う人。結構多いですよね。
特攻とかも日本にはあったわけですし、人間には食人文化というのもあったわけで、いろいろと考えて行かなければならないのかな。と思います。
みなさん、コメントくださって・・・なんかね、ちょっと涙でました。まだ整理がついてないので、コメ返は時間かかります。とりあえず、こちらでお礼を・・・たるほさんが、てらもっちさんとわたしを結びつけて、独自のコメいれてくれています。書き直すべきかな?とも思うのだけど、未熟さを承知しながら進めないことには、先にはいけないので、とりあえず。進めますが、みなさんのコメは、何らかの形で現れてくるだろうと感じます。わたしには、問題解決能力はないので、あくまで問題提示でしかありません。(多分、それだけで終わります。)
告知については書くべきでなかったかもしれません。少し反省しています。「うそ」にしぼったほうがよい内容だったと思っています。不快に感じましたらもうしわけありません。
ちなみにこのブログはさえさんのブログと同時間帯にアップしていますが、偶然です。さえさんのブログを意識したものではないので、あまり関連づけなくても大丈夫です。
さえさんの世界平和や原発問題、死刑に対する問題意識、絶対的な人類普遍のあるべき大切にすべき価値観、山本さんへの想いは僕に伝わっています。いい言葉、いい表現が見つかればいいですね。
今の自分は、過去、その時ベストの選択をして今に至ってる、そうだよ?
結局、結果論になるんだけど、未来については予測不可能、そのとおりだから、
今の結果が未来にどうなってるか、はわからない。
なので今、これでいいんだ、って思って行くしかないよね?
あの時こうしていたら、ってことを考えるのは無意味。
戦争、何を一番優先すべきか?は思想や信念、宗教的な面を乗り越えても、
決定付ける必要はあるよね?
まずは、「命」。命を最優先させる。
でもその命をまるでゴミのように思ってる人たちがいるから、色んなことに利用される。
ちょっと説明が足りなくて誤解されるかもしれないけど。。。
ま、「噓」って言葉自体がネガティブな印象ではあるよね?( ̄m ̄*)
なので、本題に関することには、何もコメントしないことにしました。
>けんかが起きるときは、自分のいいことと、相手のいいことが相反するとき、利害の相反が発生するから争いになる。
このことは、心に留めたいと思います。
コメントありがとうございました。いままでの、わたしなら、諦めてしまうところなのですが、あれだけは、諦めちゃいけないと思っているので、踏ん張っています。てらもっちさんの想いは、ちゃんと伝わっております。