場に咲く花を言葉が縁だ─『異界を旅する能』他3
- カテゴリ:アート/デザイン
- 2013/05/27 17:18:24
この本を読んでいる途中、NHKで『古典芸能への招待 能「求塚」~観世流』をやっていたので、録画して観た。安田登氏は、宝生流なので、観世流とは流派は違うのだが、丁度よかった。TVでは一年に数回、やるかやらないからしいから。こんな風に重なることがあるのだと思う。
言葉がわからないのでは…との不安が実はあった。だから「求塚」のあらすじをあらかじめ調べたりしていた。やはり旅の僧であるワキが、生田の求塚に来て、由来を尋ねる。村娘が語り、その村娘が菟名日処女(ウナイオトメ)になる…。二人から求婚され、あの鴛鴦に矢を射て、当たった方を選ぶといったが、両方の矢が鴛鴦に当たってしまう。選べないと川に身を投げ自殺し、二人もまた互いに殺し合い、三人が地獄に落ちる。二人に地獄でも責められる娘。鴛鴦も地獄で化鳥となって、娘の頭をつつきにくる。この演目には殆ど救いがない。たいていの能では、ワキである僧に語ることで、浄化され、亡霊であるシテは消えてゆくのだそうだが、地獄にいるまま、終わる。僅かに僧に弔いをしてもらい、少しの休息を得ただけだ。
言葉の問題は何とかなった。というか、おそらく含蓄的なこと、歌から歌への連想など広がりについては多分わからないことが沢山あったのだろうが、おおよその意味はわかった。演目に字幕がついていたことも助けになった。字幕がついていなかったら、謡としての言葉を聞いただけでは、なかなかわかりづらかっただろう。そう、それでも、わからない言葉は実際あったけれど、たぶんそれでもいいのだとも思った。思ったよりも敷居が低いのだ。気がつくと、違和感なく舞台の異界に入り込んでいた。最初に、無名の旅僧が現れる。雪まだ残る中、若菜を摘む土地の乙女たち。冷たい辛い仕事であるようだが、描写がとてもしみいるようだ。描写の美しさというか、響きに、つい辛いということを忘れてしまう。そして乙女たちの一人が、生田の求塚のいわれを語るうち、その当人となって…。これが異界へはいるための言葉なのだと、ほとんど聞き惚れながら…悲惨な状況ではあるのだが、聞いていた。次に求塚から出てきたとき、地獄の描写がウナイオトメにより、おどろおどろしく語られるが、シテは静かに舞うだけだ。それがまた観るわたしたちに想像させ、陰惨な世界を醸しだす。その時にシテが着ている衣装は白地に美しい鴛鴦。化鳥となったそれがあるのも効果的だった。
夫婦仲のよいとされる鴛鴦と、夫婦にならなかったウナイオトメの対比、そして生田川に身をなげて死ぬという対比…。
「住みわびつ、わが身捨ててん津の国の、生田の川は名のみなりけりと、」
自宅からの最寄り駅は二つあるのだけれど、久しぶりに急行が止まる方の駅に行くことがあったので、駅ビルの中の本屋に入った。『異界を旅する能』を読んだことがきっかけで、『おくのほそ道』を読み始めている。今までなぜか触手がのびなかったというのに、げんきんなものだ。その関連で、なにか次に読むように、古典文学を文庫で…と思って寄ったのだけれど、結局『英訳付き 伝承折り紙帖』(池田書店)という本を買うだけになってしまった。頁から切り離してつかえる折り紙と、やっこや手裏剣、舟など、子供の頃に折って、折り方を忘れてしまっていたもの、思い出したかったものの折り方が掲載されていたので。そして折り紙なのだが、文様に解説がそれぞれついていたのも、面白そうだった。見本帖のようだ…頁を開く。「雲立涌」「藤花」「子持吉原」「大納言」そして「観世波」…。観世家が装束に用いたものからきた文様だという。流れる水のゆらぎがあらわされている。観世流の「求塚」を想起しつつ、こうしてわたしのなかで、掛詞のように、なにかがつながって、連想のように広がってゆくのかとも思った。