今日の日記(僕は海を見たかっただけ・・)
- カテゴリ:日記
- 2013/06/22 21:43:17
今日は、海を見に行きました。
住んでるところから、真東に峠を越えれば、太平洋に出ます。
ナビに最短の行き先を打ち込み、出かけました。
阿武隈川に沿って、険しい峠と渓谷を越えて、一路、海へ。
65kmほどの距離です。
通行止めも無く、何とか国道6号線に出て、目指した先は、相馬の海辺の公園。
ふと気がつくと、自分の前後は、ダンプが走って、対向車もダンプばかり。
海に近くなると、同業者がいました。
道の両脇で、消波ブロックのコンクリートの塊を大量に製作中。
その景色が、瓦礫の山に変わり、前後にいたダンプは、道の両脇に消えて行きました。
そして、もう少しで海というところで、工事車両以外進入禁止の看板。
あえなくUターン。
また、国道に戻り、南下しました。
そこは、田んぼもお店も普通にやってて、人々が普通に暮らしてて、
おお、復興は、海辺だけか~、もう大丈夫、大丈夫なんだねぇって。
南相馬に入って、とある看板が目に入りました。
「ここから、津波被害地域」
ふ~ん、津波がここまで来たんだ。なるほど。
などと、きょろきょろ。
前方に街らしきものが見えて、ホームセンターやラーメン屋やスーパーの看板が見えてきました。
ほぉ、津波が来たところも復興が進んでるねぇ。
しかし、やけにお巡りさんが多いなぁ@@
ネズミ捕りでもやってるのかな?
ホームセンターが近くなって来て、ふと、お店に目をやり、
全身の力が抜けました。。。
営業していない。
営業どころか、商品が倒れて、フェンスも倒れて、シャッターを奥に押し込んでた。
これが、津波か。
いろいろな店がある通りも、1階のドアがなく、窓も割れ、壁も抜け。
普通のお家も、2階は普通だけど、下は柱しか残ってなかったり、
家の中には、土砂が流れ込んだままだったり。
時間が止まってました。
でも、このときは、まだ、海を見に行こうと。。。
しばらく走ると、道の両脇に車が錆びて置いてあり、
わき道に入って海を目指すと、畑か田んぼだったろうと思われる土地には、ひっくり返った、無数の車が、そのままの状態で、ほんと、そのままの状態で置き去りにされ。
舗装されていただろう道路は、陥没の跡を、石を入れただけの道になり。
競輪の場外車券売りの看板は、3月の予定をつけたままで。。。
海に近づくにつれて、畑には、水が溜まり、その水からは、腐敗臭があがり、
橋が架かってるのかと思ったら、大きなクレーンが横倒しになったままで、
たぶん集落だったであろうところには、瓦礫と家の基礎しかなく。
あの日から、2年以上経ったというのに時間が止まっていました。
人影も無く、廃墟だった。
目の前の防波堤は倒れたまま、海が少し見えてた。
僕は、車を停めたけど、降りる勇気がありませんでした。
いたるところが通行止めの看板で、迂回しながら、国道に出ようとしたとき、
初めて、人がいた。
わき道の草刈をしていました。
南相馬ボランティア隊って旗を掲げて。
その数、10人ほど。
甲子園よりも広い車が転がってる広大な土地に、たった10人。
国道に出て、南に少しいくと
「スクリーニング地点」
があらわれ、僕は理解しました。
ここは、放射能の濃度が高い帰宅困難地域なんだ。
だから、何も手付かずで、時間が止まってるんだと。
完全に通行止めになり、僕は、帰りました。
海を見る事も無く、波の音を聞くことも無く、ただ、ダンプの巻き上げる粉塵と廃墟だけを見て。
海は色んな事を教えてくれたね。
大した被害を受けていない私からは、
何を書いても薄っぺらな言葉になってしまうようで、いつも避けてしまうのですが・・
自分の生まれ育った土地が、そんな状態で、片付けに行くことすらできないなんて、
どんな気持ちなんでしょうね。。
まだまだ「時間が止まっている」…と。。。
TVや映像で流れている復興の部分は一部でしかないんだよねー
放射能があるから福島は行方不明者も捜索できないとか…。
福島に住むものとして、今もいろいろ書きたいんです。
でも、はっきり行ってなんて書いていいかわからないんです。
でもやはり書いてくれてありがとう かな 感謝の気持ちになります。
会津は被害がほとんどないけど、風評被害は例外ではありません。
同じ福島に住んでいるのです…心が痛いです。
被災地の人たちには過去じゃなくて現実なのに。
こうやって知ることができただけでも何か力になれることをと改めて思います。
とても驚きました。
目に浮かぶような書き方でした。
私の代わりに観てきてくれて、あの日を思い出させて呉れて
ありがとう、御座いました。
こうやって、伝えてくれて
ありがとう。
何かしなきゃ 何が出来るか
切に願います。^^