偽善とかザッハトルテとか。
- カテゴリ:グルメ
- 2013/06/25 22:20:03
先週末。
午前中はボランティア。自転車で移動し、昼は天丼を食べ、カフェに向かった。
カフェではダブルエスプレッソを頼み、本を読み、ザッハトルテを食し、家に一旦帰った。
夕方になり食事に出かけた。創作系フレンチで優雅な気分で夕食をとり、バスで帰宅しブログを書いた。
なかなかの休日。
僕のやっている被災現地の写真洗浄ボランティアは、被災された方の生活に直接的に関わっていない。
被災した年から、遠隔地で出来るボランティアとして続けてきたけれども、現地では仮設住宅や就労支援が先行し、このような間接支援は二の次だった。
僕も僕の仲間も、それでもずっと写真を洗い続けて来た。
「偽善」という言葉が僕の人生を刺し貫いている。以前よりは、大分楽になったけれども。
一時は、その活動が偽善的と言われた事もある。自分でも偽善かもしれない。と思い、でも続ける事を優先して来た。続ける事だけが偽善という評価から逃げる術だと気づいていたし、その気づき自体が偽善だな。とおもいながら。
いまは、やっと、そういう評価から抜け出せて、人の喜ぶ顔が見たいという気持ちが自分にあるからと言えるようになった。ある意味、偽善と言われようが、善であろうがどうでもいい。悪でもいい。
偽善であってもいい。
プライドなんかより大切なものはある。
でも、一方で善なる気持ちが本当に自分にあるのか。
そもそも、自分の生き方が善い生き方なのか、善をもって生きているのか。常に疑っている。日本のサッカーチームを応援するのがいいのか、世界平和を願うのがいいのか、生態系を優先した考え方にすべきなのか。人類の未来を優先するのが善なのか。
何が善なのか。
カフェで美味しいザッハトルテを食べるのは?世界には餓えた子供達が山ほどいる。
カフェで美味しいザッハトルテを食べるのは?世界には餓えた子供達が山ほどいる。
光り輝く街のレストランで家族を喜ばす食事をするのは? エネルギーの無秩序な利用。
言って見れば偽善だ。
自分の目の前の事からしか手を付ける事は出来ない。
だから、そこから手を付ける。
それが大切だとは分かっている。
隣の人を笑顔にする努力。遠くの人を思う心。
それが大切だとは分かっている。
隣の人を笑顔にする努力。遠くの人を思う心。
でもそれがあればいいだけではない。
かっこいい事を言ってればいいわけではない。
結局は自分の善悪についての基準が不確かなのだ。
かっこいい事を言ってればいいわけではない。
結局は自分の善悪についての基準が不確かなのだ。
僕はこれからも偽善的に生き、偽善を働き、それを自分の善だと誇り、疑い、繕いながら生きていくのだろう。
それにしても「ザッハトルテ」って偽善的な響きだよね。
フランツ・ザッハーさんが考案したんだって。
ではでは。
フランツ・ザッハーさんが考案したんだって。
ではでは。
あ、そうそう。善についてちょっとだけ追加。
こっちのほうが重要な人もいるかもね。
突き詰めて考えていくと、究極的には「善」とは「存在する。」そのことだけではないか。と思っている。
ある。その事自体、それだけで善。
しかし、その「存在」=「善」さえも「無」=悪とが先行して人類共通の感情として先行して定義されたと思われる。「死」に対する恐れという感情。
ある。その事自体、それだけで善。
しかし、その「存在」=「善」さえも「無」=悪とが先行して人類共通の感情として先行して定義されたと思われる。「死」に対する恐れという感情。
善は、その反対側に位置し、「存在」=「善」論さえも絶対的はなく、感情に基づく価値観でしかない。結局は人間の価値観に基づいた総体的な善。絶対的な善なんてない。
そんな感じ方しか出来ない自分を悲しく思う。
でも、存在=善と信じられれば
「君は、今、そこにいるだけでいい。」
という言葉も真実として言える。
僕は、この言葉を真実として誰に対しても言う事が出来る。
「君は、今、そこにいるだけでいい。」
そんな言葉が人に、そして自分に対し、自信をもって言えることが、僕に撮っては、ちょっとした幸せなんだろう。
ま、あんまり言わないけどね。
チョコの甘さがある事。それも善。
ではでは。
てらもっち7等兵。
善と悪って、頭で割り切れることじゃないんですよ。
いや、前提が何かってところになります。人間の命を守るのが善です。人間を殺すのが悪です。これは僕の信念です。中国に「巴金」という作家がいるんですが、彼が作品を書く理由が凄いんです「私は的と戦うために書いた、敵とは何か、それは愛を打ち砕くすべてのものだ」この言葉って凄くないですか?人間を守るために書いているんです。彼は善です。その逆が悪なのです。
1000文字2000文字程度でこういった話を論じるのは限界があります。しかし、論じなければならない。僕のために。(自己中心的と笑わないで下さい)
で、なんですけれど、何を言おうとしたか忘れました。スタバがいいですか?どこがいいですか?正直浅草からでるのが嫌です(笑)生意気なようですが、僕はてらもっちさんのことを友人だと思っています。失礼、対等の友人だと思っています。こうやってはなしていてもらちがあかない、話しましょう。ただ、浅草から出るのが面倒臭い(笑)妥協しますよ?どこで会います?できればてらもっちさんと僕の住んでる家の中間点が…いいかななぁ、あ、携帯番号なんですけど、ちょっと無くしちゃって、今、てらもっちさんの電話番号が分からないんです。気が向いたら教えて下さい。そんなところです。真剣に話しましょうよ。そういうことです。
そうであればスタバで。
ちなみに自分は『自分のため』という線引きが出来ません。
食事をする。これは偽善か。善か。
飢えた人を思う。食べたあとに誰かのために働く。
キリストはなぜ苦しんだのか。
もっと割り切れないところに真実がある気がします。
まぁまずはスタバで。
偽善には持続性が無いんです、なぜなら無理があるから。でも、善は永遠です。無理が無いから。
…ごめんなさい、言い方を間違えましたね。
偽善というものはやっていて苦しいものです。しかし、善というものはやっていて楽しいものです。
ボランティアをしていて楽しいと思えるのならそれは善です。逆もしかり、やっていて苦しいのなら、それは偽善ということです。
あと、偽善者っていうのは、人に厳しいんですね。面白いもんですよ。そういったものを含めてボランティアの会場で観察されてみたら面白いんじゃないですか?結果的にそういった人間から身を守ることになりますからね。
善と悪というものは関係性の概念ではありませんか?
僕の中には明確な善と偽善の線引きがあります。
偽善とは自分のためだけに正しいことをするとです。で、善というのは自分と他人のために正しいことをすることです。
ここが外からでは非常に見破りにくい。非常に難しい。でも、一つだけ言えるのは、偽善者は自分のために怒ります、善人は自分と他人のために怒ります。
率直にいいましょう。良いことをして、あー俺、良いことをしたなーってのが偽善です。良いことをして、当たり前のことをしてるんだけど、なんで俺のこと誉めるの?というのが善です。
これは真理ですよ。こんなところですかね。
偽善に悩んでいることが偽善でない証ですか。
ということは偽善に陥らないためには悩み続けなくてはならない。
ハゲないように気をつけなくては。
ハゲに悩んでいることがハゲじゃない証だったら
いいな〜。
どの言葉に引っかかるかは、性格や気質だけじゃなくて、それまでどんな経験をして乗り越えて来たかにもよると思います。
僕も善のみに生きたいわけではなくて、悪も邪もなんでも飲みながら生きています。
でも自分の根本は善であり利己であり利他でありたい。
多分、フナムシさんがプライドがないというプライドを大切にするように。
僕は言葉の使い方が厳密だと、他の人にも言われたことがあります。
広辞苑を読んだこともないのになんででしょうね。
僕は僕自身をいい加減な人間と考えてるし、いい加減に生きて来た人生でした。
まぁ、あんまり考え込まずに好きに考えたいこと、話したい事を書けばいいんじゃないでしょうか。ブログなんてそんなものです。
もちろん、そこには、いろいろな思い、いろいろな良い出会いがあると思いますけどね。
まぁ、お互いノンビリ行きましょう。^_^
偽善の定義、難しいですが、
偽善かも?となやまれる方は、大丈夫です。
偽善じゃありません。
善意と信じ込んで、人を非難するだけの方もいらっしゃいますから。
そういう方は、自分の価値観に固執されているので、手に負えません。
下手すると、人を自殺に追い込むようなことを、平気でなさるのです。
偽善者の方に、いらいらしていましたので、
すばらしい記事読ませていただき、よかったです。
心が洗われました。
てらもっちさん、ありがとう♪
私も、ザッハトルテ、大好きです。
美味しいですよね。
誰かの助けになったり喜ばせられるだろうと思って行動して自己満足しています。
見返りがほしいとは思わず、ただただ自己満足ですね。
責任というのを考えることを放棄してしまっているのでしょうね。
全力で行動すれば多くの命が助かることがあるのをわかっていてやらない。理由は面倒臭い、自分のやりたいことがあるからですねぇ。
このコメ返事、本当に丁寧に真摯に考えてくださって嬉しく思います。ありがとうございます。
新しい学びがありました。
>でも、しばらくは、人に対してはそういった言葉を使えなくなる。と思う。
>で、そっから会話などで人の善の尺度を吸収していって、もう一度「善」という言葉を再定義する。
>社会と自分とのバランスある言葉の定義が出来ると思います。
てらもっちさんの素晴らしいところは、ひとつひとつの言葉を使うときに、その全ての言葉に深い意味をもって使っておられますね。わたしは、言葉の定義が、ひどく曖昧で、かなりいい加減です。プロフにも書いていますが、自分のそうしたいい加減さは、いつも認識しています。それゆえに、怖くて書きたいことも書けないでいました。でも、怖がってばかりでは、一生、心を閉ざして生きていかなければいけません。そうした自分からは卒業しないといけないと感じています。相変わらず稚拙な文章ではありますが、どうか、広い心でお見守りいただけると嬉しいです^^
くーやさんの才能は、その感性的な割り切りですね。
上の文章読んで、ざくっと意味とらえて、そのコメント。さすがです。
偽善って、僕が思っていたよりネガティブなワードらしいです。
僕のボランティア仲間は、結構、敏感に偽善という言葉に反応していました。
ま、シンプルが一番です。そのとおり。
しっかり寝ちゃってください。^^
さえさんの寂しさ。というのは言い換えれば、価値観の特殊性による孤立感なのかな。
それと価値観の尺度としての善の位置。
個性ある生き方。 美化して言えばそういうこと。
ただ、それは他者との違いを認識できる機会が多い訳で、まぁ「あれっ?」って思う機会が多くて困るのかもしれないけど、一方で刺激的でクリエイティブな人生なのかもしれません。
天才はいつも孤独らしいです。
でも、人を理解するチャンスも沢山あるし、世界の面白さを楽しめる人生とも思います。
ひとつアドバイスとしては、善とか、いい、よい、という言葉を自分の善の定義に一度してみること。
自分の善をベースにすれば、ある程度の絶対的尺度として使える。
でも、しばらくは、人に対してはそういった言葉を使えなくなる。と思う。
で、そっから会話などで人の善の尺度を吸収していって、もう一度「善」という言葉を再定義する。
社会と自分とのバランスある言葉の定義が出来ると思います。
ではでは。
お久しぶりです。
キャラクターの多様化。さすがに面白い観点ですね。
多分、生き抜く事、生き残る事がいいことだった時代から、今のように幸福という曖昧な概念、各人の価値観に頼るものを目標とするようになってから、善が多様化していったように思います。
多分、僕の書いた事を言い換えれば、「生きる事。それだけで正しい。」って事なのかもしれませんね。
善が対立するケースっていろいろあって、このブログに書いた偽善のケースもそうだし、宗教戦争とか国家間の対立、国会、酒場でのけんかだって、みんな自分が正しいと思っているケースが多い。
で、基本的なところに戻って、ある事が、それだけで善。というところまで戻れれば対立も減るんじゃないかな。すくなくとも、お互いの価値観の一つは認められる訳だし、お互いの存在がまず善。とおもえれば、気分も変るんじゃないかな。
正義論も感情論という認識って、とても重要だと思うんです。
物事なんでも実にシンプルなんだと思う。
それを複雑に考えてしまうのが、人間・・・もどかしい生き物です。
こんばんは。
わたしは、いまね、もう寝る前なのです。
>何が善なのか。
夜空に輝く星のように無数にあるような気もするね。他にも心に響く言葉が、たくさんありました。
自分の中の想いって、いったいどれだけの人に届くのだろうね?
わたしは、自分の中にある自分すら、つかめないから、他人のことなんて、まるでわからないのだけどね。
>結局は人間の価値観に基づいた総体的な善。絶対的な善なんてない。
うん、間違いなく、そうなのだと思う。幸せというものが、自分でそう感じるしか得られないように「善」もそれに似てる気がします。
>そんな感じ方しか出来ない自分を悲しく思う。
ああ、ここなんだなと、思う。わたしがいま、こんなにも、悲しく、そして、さみしいのは。。。
ではでは。
生命の究極の目的はとにかく存在し続ける事なのに違いない。
自分の子孫が存在し続ける事が善。
自分の種族が存在し続ける事が善。
それが、人間になるとキャラクターも多様化して、
自分を犠牲にしてでも他者(人類)が存在し続けるのを助けることが善とか、
逆に、ひとり自分さえ存在し続けられれば他者はどうなったって良いとか、
色々と枝分かれしていったのだろうかな?