Nicotto Town



「無」の時間


久しぶりに用事も急務も観たいTVも眠気も「無」の夜。

全ての音と光を「無」にして横になりぼーっとしてみました。
別に悩みとかあるわけでもなく、この空間、このひと時が安らぎ。

最初は勉強のことやら何やらをとりとめもなく考えていたけど
意識はあるとき急激に内側に引き込まれ凝縮されました。
体は徐々に付加物となり、普段1だと思っていた自分は2にも3にもなってゆく。
触れているのも触れられているのも自分でない自分。
自分は1ではない、個人であって個人でない、と感じました。
胸で起こる振動は複数をつなぎ、同心円状に発信する。遠いほど収束。
そこには物質的な核がある。あくまで物質的。
個人だと思っていた自分は団体である。
というか
個人という名の社会がある、そんな感じ。
じゃあ自分はシステムであって
1つの生命体ではないのか?自分は生命体でさえないのか?
それはなんか違う。
・・・自分は都市だ。体は建築物、血管は道路、心臓が地盤、
そんな感じ。
生命体は意識。こんな変な思考をしている意識。ただしそれも1ではない。
みんなそうかもしれないしよくわからないが
自分の中には複数の意識が存在する。
最も表面に近い意識、それを支える常駐型の2つの意識、全く系統のことなる非常駐型の5つの意識。いま確認できている意識はこんな感じかな。
もっとも、この意識1つ1つも1ではないのかもしれないが・・・
この2〜7つの意識のそれぞれ全く異なる意見の中から最有力なものが表面的な意識に伝達され、実社会的に表面意識にふさわしい形となって表出されている。
この仕組みがズレ、表面的な意識が意見を変形しない、あるいはそれ以外の意識が直接外部へ表出されてしまったとき、実社会において多重人格と呼ばれるのであろう。
みんな多重人格。意識を表面的に入れ替えるかどうかが、実社会で多重人格として認識されるかどうかを決めているだけで、単なる定義の問題なのかな。
つまり自分という社会に住む生命体は最低8つはある。
その生命体は脳という建築物に集合している。地下2階、地上1階建ての建築物。
とはいっても地下1階と地下2階の間には数十m程の高低差がありそうだけど。
そんな社会を自分はもっているようだ。

て、なんだこの思考w 
昨日読んだ森博嗣さんの小説に影響されまくりw
でももちろん森さんの足下にも及ばず
自分の思考は低レベルかつ不毛、無駄、無意味、無茶苦茶。
やっぱ「無」の時間だったな。

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2009/08/10 01:13
コメントありがとうございます!
スカイクロラシリーズ良いですよね♪
自分はあの淡々としていて孤独でありながらも、真冬の晴れた夜のような鋭利で深い純粋さを感じられる雰囲気が好きです。あと物事の考え方も。
共感してもらえて嬉しいです(^^)
是非「無」に近い状態で思考してみてください♪
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2009/08/09 09:44
私も森さん時々読みます。(萌シリーズは苦手だけどスカイクロラは大好きという感じの傾向です)
akkyさんみたいに深く考えたことはないけど、自分という社会にすむ生命体の考え方はすごく納得できます。
バタバタと過ぎ去っていくだけの時間のなかで、あえて光や音を遮断して嗜好するakkyさんのやり方を見習いたいです。



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