富士と不二、描いた稜線が、赤い糸だ。2
- カテゴリ:アート/デザイン
- 2013/10/29 20:37:45
(前回から続く)
『富嶽百景』、跋文は以前から好きだった。七十三歳で生き物、草木の造りをいくらか知ることが出来た。八十六歳になれば益々、九〇歳で奥義を極め、百歳で神域に達し、百十歳で絵は生けるが如くになるだろうと言っている。なんという生きざま、なんという歩みなのだろう。ともかく初版刊行は一八三四年、北斎七十五歳の時。「冨嶽三十六景」(一八二三~一八三一年)で描ききれなかった富士の総決算といった意図をもって制作に臨んだという。だから「冨嶽三十六景」を彷彿とさせる作品、同じ場所を扱った作品も多い。けれども白黒であるこちらは、色を使っていないにも関わらず、確かに「冨嶽三十六景」で描いた世界を、さらに絢爛かつ深く求めた、というものが多いように感じられた。
最初に惹かれたのが『霧中の不二』。険しい山道が前景で、そこを登る旅人たち、そして薄墨によって、背景に木々と富士がうっすらと見える。霧と朝靄とか、或いは光や空気を感じた。前景の山道がくっきりと描かれていて、対比が著しい。向こうとこちらが別の世界でもあるかのようだ。幻想と現実。だが現実で登る人々は向こうの空気を吸っている。
『洞中の不二』は、木の洞の細長い楕円から富士を望む。《冨嶽三十六景 尾州不二見原》の、桶の中から見える富士をも彷彿とさせる。枠の向こうに異世界を見るようでもある。
『烟中の不二』は、大きな富士が後にくっきりと描かれ、前に焚火をする旅人と馬。焚火の煙が富士にたなびく、富士をなかば包みこむ。煙と富士に、降りしきる紅葉の数多。白黒だというのに、色や匂いが伝わってくるようだ。或いは秋を描いた着物を想起した。あでやかな紅葉の刺繍のほどこされた着物の女性が幻影のように行きすぎる。
『羅に隔るの不二』は、蜘蛛の巣ごしに見る富士。富士はぼんやりしていて、巣の中央の蜘蛛、そして貼りついた紅葉、巣がはっきりと描かれる。向こうの静とこちらの動。
『容裔不二』(ウネリフジ)は、舟と一面の浪。富士はない、けれども富士が見える。つまりうねる浪が富士だというのだ。この発想にはわくわくする。雲にいろんな物を見た、いつかの私を、肯定してくれる、想像を膨らませてくれる、やさしい力強い筆だ。
そして『海上の不二』。浪の向きは反対だが、《冨嶽三十六景 神奈川県沖浪裏》によく似ている。大波の向こうに富士。けれども波飛沫がそれよりも更に繊細かつデザイン化されている。そして波飛沫は、列をなして飛ぶ千鳥に変わってゆく。波が富士を目指すのか、波が鳥になったのか。こんな風に、想像は自由に羽ばたいていいのだ。そしてエッシャーの絵のようではないかと思う。田園が鳥になり、鳥が夜と昼になってゆく《昼と夜》。
エッシャーのようだといえば、『田面の不二』。水面にくっきりと富士が映り、その上を雁が飛ぶ。水の中を雁が飛ぶよう、雁もまた水に映っているようだ。前景には、地上にいる雁たち。実像と虚像がからみあい、ひとつの空間を作りあげている。幻想と現実。
他にも鷹や龍と富士、雨の富士、杭や布、竹林越しに見た富士、漫画の手法のように枠から飛び出た富士と、話題は尽きないが、『富嶽百景』については、この辺にしよう。
そう、富士という男、慣れ親しんだ男のような富士に戻って。今日は雨で、実は富士が見えなかった。だが『富嶽百景』の不二が、私に富士を見させてくれた。北斎の描いた不二は、見ることで私の中の富士と重なってゆく。そうすることで稜線は、私と彼をつなぐ何かとなるはずだ。人はそんな風に接することができる。そんな風にしか接することができない時もある。或いはそれは過去から現在を貫く稜線であるだろう。富士を描く線はどこまでも引かれる。実像と虚像、現実と非現実、過去と現在、あなたと私。
翌日、ベランダから富士が見えた。ここ数年で欅が育ってしまって、実は富士の半分位を隠してしまっている。だが、それもまた素敵な眺めだ。第一、通路に出れば、欅に隠れることなく富士の稜線は、私にまた降りてくるのだ。駅に向かう。公園に一面の落ち葉。落ちた葉が地面で、最後の唄を歌うように、さくさくと音をたてる。崖下に湧水の見える竹林が、『富嶽百景』で見た『竹林の不二』を想起させる。けれども富士は、ここではなく、すぐ近くの崖縁から見える。そこに立って、自分の中で、竹と富士を重ねて、『竹林の不二』を想う。それはさらに重なるだろう。いつか見た、この富士の夕焼け、さらにさらに。小さな頃、夏休みの宿題で描いた富士の絵、或いは銭湯のタイル絵の富士と海に、まるでお風呂ではなく、海に浸かっていると思った日々のこと。富士が私を見ている。そうだ、やはり坂の上だった。初めての朝帰りの道すがら、夏の恋情でほてった、酸っぱいような、むずむずする気持ちを抱えながら、見つめた富士の、なんて心地よい冷たさだったろう。富士が私を見ている。穏やかな愛情で、と先程書いたが、それだけではない。富士と見つめ合うと、それでも、軽やかな新鮮な驚きがわきあがるから。
特にこの日、晴れた秋の景を、宝物のように、見つめることができたのは、北斎のおかげだ。彼の稜線が、眼前の富士と重なって。日常と接した非日常、近しいそれらの閾に、私はその時いたし、多分、望めばいつだって、そこにいれるのだと彼らが教えてくれたのだ。収穫を終えた小さな田圃に、落ち葉が一面に積もっている。まるで落ち葉の花畑のようだ。桜の木が春に花を咲かせ、秋に葉を色づかせ、二度咲くように見えるように。また落ち葉、『烟中の不二』が、あるかなきかの匂いをはなつように肩を抱いた。