流れる川に蔓が流れる ウイリアム・モリス展 2
- カテゴリ:アート/デザイン
- 2013/10/31 00:13:29
(前回から続き)
そうして壁紙やファブリックなどの布製品、草花たちのおりなす模様たちを見ていたら、酒井抱一とか、鈴木其一、北斎の花をふっと連想したりする。似ているわけではないのだが、たとえばこの時期以前に西洋にありがちな植物標本のような花、死んでいるというよりも生きていない花ではなく、そこにある花の生、植物の生を、捉えようとしている、そんな心が、そこかしこに、見えていたからかもしれない。そして、花たちの生をそのまま描くのではなく、琳派の人たちが装飾性を加味しているように、北斎がデザイン性をも重んじていたように、ウイリアム・モリスのそれも、生をとらえつつ、たとえば左右対称の文様的なデザインをそこに組み合わせたり、からまるような流線をほどこすことで、写実とデザイン、両者を結びつけ、独自のスタイルを作り上げていることに、彼らを想起したのかもしれない。
モリスは、また中世を手本にしたそうだ。図録から抜粋するが、ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石』にこんな一節がある。「中世には、芸術と職人、そして芸術的創造と生産労働とは、分けることのできないひとつのものであり、また、人々は日々の労働に創造的な喜びを感じていた」。モリスはこの言葉に共鳴し、光を見た。生活と美が分かれることなく、融合して存在しあうこと。この融合ということが、展覧会では、生活と美に限らず、あちこちで見られたようにも思う。
植物の生という描写とデザイン性、そして織物に見られる中世へのオマージュとしての文様と、モリス独自の、モリスの現在との融合。
彼が工房を作り、ステンドグラス、タペストリーなどのデザインでバーン=ジョーンズ、タイルではウイリアム・モーガン、ランプではウイリアム・アーサー・スミス・ベンソン等、多数の人たちと共同して製品を作り上げていったことも、中世的な共同作業の意識がおそらく混じっているだろう。それもまた他者と中世と現代との重なり合いだ。
この融合への意志は徹底している。彼が社会主義活動をしたのも、丁寧な仕事、天然にこだわった材質の製品は高価で、庶民に買いにくいものになってしまうからというのがきっかけだった。そしてステンドグラスの仕事も、中世の教会などの歴史的価値を重んじる故、事業を縮小したりしている。
ステンドグラスは、展覧会でも写真フィルムで展示がされていた。暗い照明の中、後ろからあてた光で、フィルムが照らし出され、おおよそのイメージがつかめるようになっている。実際はきっともっと、荘厳なのだろうけれど、雰囲気の一端は感じられる。私は昔からステンドグラスがわりと好きだったので、空間にひかれはしたが、圧倒されたというほどではなかった。だがデザインにバーン=ジョーンズが多く、彼への不信感が、ステンドグラス作品を見るうち、それでもだいぶ薄れてきた。がっかりした展覧会の前の、私の状態を思い出させてくれたのだ。私は彼の絵が好きだった…。いや、もしかするとウイリアム・モリスとセットで好きだったのか。
展覧会のタイトル「ウイリアム・モリス 美しい暮らし」は英語にすると、“William Morris Life in beauty”となる。図録の表紙にそう書いてある。今、これを書きながら、ふとそちらを見て、“美しい人生”とも読めるなと気付く。暮らしではなく人生、あるいは生、“美しい生”だ。それは想像世界と現実世界の狭間の生、両方を融合した生だとも思ったりする。それは書き手たちにとっても歩むべき、美しい生ではなかったか。展覧会では、美しい中世の本に想を得た活版印刷の本が展示されていた。
府中市美術館は都立府中の森公園内、森の中にある。森の中の美術館というのは、けっこう多い気がする。世田谷美術館、宇都宮美術館、ポーラ美術館、川村記念美術館、庭園美術館(こちらは隣接した敷地が自然教育園という森だからだけれど)…、町田市立国際版画美術館、埼玉県立美術館、ああ、なぜか森ということを失念してしまうのだが、国立西洋美術館、東京都美術館、東京国立博物館などもそうではないか。あのあたりは上野の森なのだから。
美術館を出て駐車場まで歩く。もう木々の葉が色づいていた。まだ紅葉とはいえないぐらいではあったが確実に。うちの近所でも、森というか林程度の緑は眺めている。なぜ気付かなかったのだろう。秋のにぎわいが、もうすぐ始まる。