仏教のお話・・・それと「悪魔の自分」
- カテゴリ:日記
- 2013/11/27 01:52:56
朝、バタバタとしてトイレをすませてから急いで車に乗りました。会場についたのは10時10分。10分遅刻、「仕方無い子」と、言う目で主催者様から見られて仏教の講義を聞きました。
仏教の講義は「聞即信」という言葉についてでした。
もんそくしん。
と、読みます。聞きなれない言葉です。
この言葉の意味するところは「無償の愛」に巡り合うという事です。
目で見えない、耳でも聞こえない。
名号をいただく。
南無阿弥陀仏。
なむあみだぶつ と、読みます。
この言葉自体がサンスクリット語で。
真言です。
南無阿弥陀仏。
この六文字を心に思い浮かべる。
さて・・・見ながらでいいので、思い浮かべる事ができますか???
次は・・・目をつぶり、心の中心に思い浮かべてください。
逆に見ながらやるなら掛け軸ぐらい大きなモノが家にある方はぜひそちらを見つめて自分の心に思い浮かべてください。
あと、南無阿弥陀仏 掛け軸で画像検索すればたくさん出てきます。
真言修行された方なら・・・ここまで読んだらもう分かる内容です。
真言を唱えて・・・真言を心にイメージする
この場合、南無阿弥陀仏をイメージする
はい・・・これができれば・・・人間では100%不可能な「無償の愛」に巡り合うのです。無償の愛が人間の自力で無理な事は三日月ライトさんが教えてくれました。まさに人間には無理です。
真言修行はただ唱えるだけだと・・・幻想まやかし、嘘です。お釈迦様もこの事は否定されています。
真言修行で大切なのは・・・真言を唱えて真言をイメージする事です。
それも心で。
脳で。
どうしてそれが必要なんですか???
イメージできるようになるとわかります。
はい。体験してください。そして体験を繰り返し、繰り返し体験してください。
ボクは相対性理論のE=mc2乗を心でイメージできるので
全ては一つ 一つは全て という空(ku)の世界を体験しました。
そんな馬鹿なと思う方もいると思います。
しかし、宇宙とつながる「言葉」というモノはイメージすると、すごい効果がある事は仏教2500年の歴史が書物で証明しているのです。
かつ、現在進行形で、現在も密教のお寺ではこの修行がなされているのです。
お坊さんは10年やるそうです。
密教はたくさんの「真言」があるので10年でも足りるか、どうか。
そこでボクは法然上人に習い、「南無阿弥陀仏」をオススメします。
法然上人はこれ以外の修行は一切必要無いと、言われています。一つだけならわずか一年でもすごい成果があります。
そしてまさにそのとおりであった。
と、言われているのが、親鸞聖人です。
有名です。
話変わり、「憎しみしか湧き上がってこない悪魔の自分」がいます。
ボクは・・・何がトラウマで「世界を憎んでいるのかわからないんです」
そう、ボクの心には深い傷があるみたいなんです。
それは無理に探そうとしても見つかりません。
自分が憎しみを感じる瞬間、瞬間に聞いて行くしかないのです。
そのどうしようも無い心を聞くのに・・・「南無阿弥陀仏」のイメージができると「心」は自然に落ち着いて行きます。
精神病院へ入ってしまった友人も落ち着いてきたと、言っています。
「南無阿弥陀仏」という言霊そのものの、イメージには宇宙と直接つながる言霊が宿されているのです。
だから・・・イメージできるようになると、わかります。この言霊の素晴らしいパワーが。
われ、無条件、無償でそなたを救う。
そなたがわれの「分霊(わけみたま)」であるゆえに。
存在している事が尊いのだよ。
どうか無条件の愛に巡り逢っておくれ。
そう、言われているお方です。
阿弥陀仏と呼ばれていますが、正式な名前ではありません。
哲学者ハイデカーは神にあらず・・・あえて呼ぶなら「最後の神様」と呼びたい。
中国の荘子と老子は呼び名は無いがあえて呼ぶなら「道(たお)」でもよいし、「大」でもいい。
ボクは・・・神と呼ぶことさえおこがましい。
それ以上、「すべて」そのもの。
真言がわかりにくい人は
「そのままの私でいい」
そのままのあなたでいい
この二つを唱えてください。
あなたの傷が癒えますように。
あい
ブログのネタ提供をありがとう
であるか。
が、タイトルです。
あい
ですが、それが時間が経つと、とても変な思想にかわっていったのが、残念で仕方がありません。例えば、戦国時代、戦争で疲弊していた農民たちを現実から目をそらせて、さらにその農民たちから悪徳坊主が、年貢や食べ物を渡すように、説きました。「物欲をすべて捨てれば、極楽へいける。」と言いました。それを信じた農民たちは、食べるものさえ悪徳坊主たちに捧げて、死んで行きました。
弱い者からさらに、奪い取るために使った無条件という極楽思想という洗脳は、一握りの権力者のために使われたのです。そんな悪徳坊主と戦ってくれたのは、織田信長でした。信長は、そんなオカルト宗教をする寺を燃やし、魔王と農民たちから言われましたが、現実の生活を農民たちに与えたのでした。
オカルト宗教カトリックも同じです。もともとの聖書を改ざんして、自分たちの権力思想の強い宗教をつくり、お金を払ってお札を買えば天国へいけると説きました。
仏教もカトリックも無条件の愛という名の詐欺の虐殺がされたのです。
ここで大切なのは、無条件の愛でありながら、そこには現実と一致していなければいけないということです。逆に現実だけでも、足りないのです。どちらのバランスも必要だということですね。
リルルさんは、どちらかというと思想派であり、無条件の愛の傾向が強いようですが、現実の話にも耳を傾けれることが出来るので、少し気をつけるぐらいでいいのかなーとは今回のブログで思わされました。ただ、やっぱり仏教には、根拠となるものが哲学と霊的分野しかないことから、限界があるように思えますね;
今日のブログもありがとうございます。
今日の「南無阿弥陀仏」は私には、全くイメージできませんが^^;
いつかイメージできる日が来るのかな?・・・
どう意味なんですか?
また是非、教えてくださいね。
あと、私は優しい人間ではありません。
でも、私が尊敬できる人とか、人としてステキだな~って思える人には、
優しいです。優しくできます。
でも、嫌いな人・・・自己中な人、ズルイ人、思いやりがない人、自分のことばかり話す人、
などには、一切、親切にできません^^;。
そういう人達にもいいところがあるのでしょうが、
ダメなんですよね~^^;、そういう人達と接することが^^;。
だから、私は大人になりきれていないというか、
そういう自分も自分中心なのかもしれません。
このような融通のきかい自分、おおらかに物事を見られない自分、
自分で自分を追い詰めてしまう自分、
困っています^^;。