Nicotto Town



あいりーさんへ

いつか「知っている?」と聞かれたことがあるけど、覚えている?


諏訪市出身のバレエダンサーの話。



わかったわよ!

ニムラエイイチという人だわ。


以下、コピペするわね。


舞踊・バレエ界では、よく知られているニムラ舞踊賞。しかし、一般にはニムラエイイチとニムラ舞踊賞のことは意外と知られていません。その理由のひとつに、ニムラエイイチが1979年(昭和54年)に亡くなるまで、一度も日本に帰国しなかったことがあげられます。
 ニムラ舞踊賞基金の設立に前後して、親交のあった舞踊評論家による研究や自伝の発行などから、ニムラエイイチの海外における高い評価や、舞踊・バレエ界に残した偉大な功績が掘り起こされました。

「諏訪が私のふるさとだった・・・」
 ニムラエイイチ(本名 三木富蔵)は、1897年(明治30年)、現在の長野県諏訪市諏訪2丁目に生まれました。家は由緒ある商家で、菓子商を営んでいました。幼くして両親との別れを経験しますが、礼節を重んじた祖父、友人や近所の人々などとのあたたかいふれあいの中で、楽しい少年時代を過ごしました。
 また、ニムラは、自伝の中で、諏訪の四季折々の自然や、一年を通して繰り広げられたいろいろな年中行事、高島小学校の思い出など、ふるさと諏訪を感慨深く回想しています。
 その後、いろいろな事情で没落していく三木家にあって、ニムラは15歳のとき、東京へと旅立ちます。代議士や弁護士の家で書生をしたり、さまざまな職業を体験しました。
 やがて、徴兵検査のために、5年ぶりに諏訪へ帰ったニムラを待ち受けていたもの、それは三木家の消滅と、先祖の墓の荒れ果てた姿でした。知人がアメリカへ渡って成功していることを思い出した彼は、「そうだ!アメリカへ行こう!新しい国、アメリカへ行こう!」と決心したのです。

「人々がおたがいに理解し合えること」
 1918年(大正7年)、21歳の秋、ニムラはアメリカの地を踏みました。シアトルでは、木材キャンプでトロッコのレール敷きのアルバイトに従事しました。労働は厳しかったが、そのおかげで筋肉隆々たる、たくましい体になったそうです。その後、シカゴへ向かう途中の列車内で、将来にわたって大きな糧となる体験をします。若い母親が生後まもない赤ちゃんを抱いて、ニムラの前に座っていました。当時、女性の顔はまともに見るものではないと、教えられていたニムラは、できるだけ顔を見ないようにしていたそうです。しかし、そのうちに自然と目と目が合うようになり、たどたどしい英語での会話が始まりました。彼女の熱心に話を聞き取ろうする優しさにふれ、皮膚の色が違っても、ことばが違っても、やはり人間同士、打ち解けることができるのだと感じたのだそうです。
 また、このとき読んでいた日本語新聞の記事に胸を打たれたニムラは、アメリカでの新しい名前を思いつきます。その記事は、タバコのニコチンがハンセン病にきくとのことから、タバコの吸殻を集め患者に送っている新村という女性を紹介するものでした。新村と書いてニムラとルビがふってありました。この心の美しい女性の苗字をもらい、英一と続けて新村英一。ニムラエイイチが誕生したのです。
 その後、いろいろな職業を体験したニムラは、ニューヨークで知り合った日本人俳優から、劇に代役で出演という知らせを受けます。

「夢を追う力、それは努力」
 当時、ニムラは、ダンスホールへ毎晩通っていたそうです。そこのダンサーたちから、ニムラは本当に優雅だ、とほめられるようになっていました。「踊りは好きな道だし、ダンサーたちがああいってくれるのだから、まんざら才能がないわけでもあるまい。」そう思ったニムラはついに決心します。「ようし、それなら本格的な舞踊家になってやろう。ちゃんとした先生について、どこまでやれるかやってみよう!」。舞踊家としてのニムラエイイチ
の第一歩でした。
 そこからたゆまぬ努力と、個性あふれる想像力により才能を花開かせたのです。午前中に舞踊のレッスンを受け、昼はレストランで働き、午後もレッスン、夕方から深夜まで、またレストランで働く。ニムラが部屋に戻るのはいつも深夜2時過ぎでした。友人のすすめでバレエのレッスンも受けるようになり、芸術の道の険しさを理解していきました。

「過去のものを慈しみ、現在の信念を大切に、未来への希望を育てる」
 1925年(大正14年)カーネギーホールで行われたデニショーン舞踊団の公演で「クアドロ・フラメンコ」に出演し、ダンサー・ニムラエイイチの初舞台を踏みます。その後、いくつかの公演に出演、1930年(昭和5年)、ついに自らの発表会を開催するに至ります。会場はブロードウェイのニューヨーカー劇場。それはいつか創作舞踊家として世に出ることを密かに考えていたニムラにとって、夢の第一歩となりました。「幕があいて、スポットライトがあたったとき、私はやるぞ!と心の中で叫んだ。そこにはもう内気なニムラも、自意識過剰なエイイチもいなかった。どんな大批評家や大舞踊家が客席にいようと、平気だった。私はただ一心不乱に踊った。ちょうど大きな筆で字をかきまくるように。」
 その後も、いくつもの大舞台を踏み、ニムラの名は舞踊家で揺るぎのないものになっていきました。専門誌ダンス・マガジンには「サムライ・ダンサー、ニムラ」と題した評伝が掲載され、イギリスやドイツの雑誌にも記事が載るようになりました。

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2013/12/05 05:11
あいりーさん。

海外で踊っていたみたいよ。
バレエダンサーとして。
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2013/12/04 22:59
ありがとーーーーー!!!
長年の謎が解けたわ!
ニムラエイイチというのね。三木富蔵というのが本名なんだ!

日本人で海外で評価が高い明治生まれのバレエダンサーがいて、しかもそれが男!その上、諏訪出身って一体どこをどう押したらバレエに行くのか不思議でたまらなかったの。

しかし、それではニムラはバレリーノ・・・というわけではなかったのかしら?
舞踏家なのね?バレエというより創作ダンスだったのかしらね?



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