日本の歴史 第4回 東アジアの動乱と国家建設
- カテゴリ:30代以上
- 2014/05/17 10:55:03
589年、長い間分裂していた中国が隋によって統一され、強大な帝国が出現しました。
間もなく隋は高句麗に遠征を開始し、朝鮮半島や倭の国々の間では緊張感が
高まりました。
このような情勢の中、大和王権では推古天皇のおいの厩戸王(うまやどおう・
聖徳太子)が豪族の蘇我馬子の協力のもと、さまざまな政治改革を行いました。
「冠位十二階」や「憲法十七条」の制定は、いずれも豪族の専横を戒め、
天皇中心の秩序を強めようとした改革でした。逆に言えばこのころ、豪族たちは
比較的大きな権力を持って自立していたということです。厩戸王の改革は、
隋と対抗するために、国内を天皇中心に一つにまとめる必要に迫られて
行われたのでした。厩戸王は倭の五王以来途絶えていた中国との
国交再開も行いました。607年に派遣した遣隋使では、小野妹子に
「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を持参
させました。これは隋の皇帝には従属しないという書式であったため、皇帝の怒りを
かいましたが、隋の高句麗政策もあって国交は続けられました。以来、隋から進んだ
文化や政治制度が入ってくるようになりました。
618年、隋が滅んで唐が成立しました。唐は隋で行われた律令制に基づく中央集権
国家体制をさらに充実させていきました。
一方、国内では厩戸王らの改革にもかかわらず、依然豪族が力を持ち続けて
いました。こうした中、645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は中臣鎌足
(なかとみのかまたり)とともに「乙巳(いっし)の変」によって蘇我氏を排除し、
翌年には「改新の詔(みことのり)」を発して律令制の国づくりの基本を示しました。
この一連の流れを「大化の改新」といいます。
そんな中、大陸で大きな情勢の変化が生じました。唐が新羅と連合して百済、
そして高句麗を相次いで滅ぼしたのでした。中大兄皇子は百済復興を目指して
朝鮮半島に軍を派遣するも、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで敗れました。
中大兄皇子は唐や新羅に対する防衛を固めるとともに、
668年に天智天皇として即位し、律令国家体制の確立に向けて改革に力を注ぎました。
その後は672年の「壬申の乱」という混乱もありましたが、改革は天武天皇から
持統天皇へと引き継がれ、689年の「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」
という令の施行に至りました。
「律」とは現在の刑法にあたるものであり、「令」とは行政法にあたるものです。
律令国家とは、これらの律令に基づいて天皇を君主として豪族や全国の人民を
支配する中央集権的な国家をいいます。694年の藤原京への遷都と701年に
完成した大宝律令で一応の到達点を見る律令国家の特徴には以下のような
ものがあります。
①豪族から官僚へ
大和王権を構成していた畿内の豪族たちは、律令国家の官僚として組織されました。
それまでの土地に根差した豪族から、都市に居住する官僚へと移行し、政府から
禄や食封(じきふ)などの給与が支給されました。
②戸籍と土地政策による民衆の支配
戸籍に基づいて6歳以上の男女に一定量の田(口分田)を与える(班田)。口分田は
死ねば収公されました。これを班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)といいます。
班田の前提として、条里制と呼ぶ方形の土地区画の整備が行われました。
③統一的な税制
口分田を班給された、収穫の3%にあたる祖を負担しました。また成年男子には
都まで運んで納める庸や調などの税もありました。
律令国家になったことによってそれまで豪族などが支配していた土地と人民は
公地・公民として天皇が支配する形となりました。ただし、律令国家はこの時代に
完成したわけではありませんでした。8世紀を通じて唐からの直輸入の制度を
日本風にアレンジしていく過程があり、それを含めて律令国家建設は長いスパンで
捉えたほうがいいでしょう。
巡回の時は貼りつけのメッセージでゴメンナサイ。
ディオたま博学 日本でも長い歴史が今の日本を作っているんでしょうね
ロマンだわ~~