Nicotto Town


ひまわり畑を眺める一匹猫


地上の波season2 ③

「なぁ、酒井さん、悪い事は言わん、これを持って行きなよ。その話の内容をしっかりと残すんだ。」

 

八野は酒井にICレコーダーを手渡した。

 

「いや、八野さん、こんなものは必要ないよ。ただ、私は今まで通り彼女と仲良く仕事がしたいだけだし、きっと彼女はわかってくれると思うんだ。」

 

「なぁ、酒井さん、人が必死に仕事をするって言う事はね、時に何事にも優先させてしまうものだよ。子供や家庭をも犠牲にしてしまう事もある。千尋クンの父親もね、そうだったんだ。家族みんなで食事も出来ないような、そんな荒んだ家族だった。でも、彼女の、子供としての想いが伝わった結果で、今ではとてもいい家族に戻った。友子さんもね、仕事に対してそんな、何事にも優先させてしまう熱意を感じるんだ。それがある日、昇進と言う形で実を結んだ。今はそれを守る事に必死で、周りが見えなくなってしまっているような気がするんだ。もちろん、酒井さんが彼女を信じたいと思う気持ちもわかる。でも、万が一の事を考え、これを持って行って欲しい。これはその、万が一のための保険だと思って欲しいんだ。」

 

「八野さん・・・もしも万が一が起こっても、これに録音された物は私は使わんかも知れん。それでもいいかな?私はこのボタンは押す。でも、決して使いたくはない。使いたくないんだ。」

 

「ああ、それでいい。でも、必ず残して欲しい。」

 

2人はコップの酒を飲み干し、酒場の席を立った。

帰り道、八野は自分の勘が外れる事を、初めて精一杯願うのだった。

 

その一週間後、酒井からの連絡が来る事になる。

内容は、八野が貸したICレコーダーの返却ともうひとつ、友子との話し合いの後の衝撃的な事件だった。


酒井が八野事務所を訪れたのは、連絡の翌日だった。

目的は借りていたICレコーダーの返却だった。

酒井はICレコーダーを借りたという事実と、それを使用したという事実の責任を果たすという名目で、録音した内容を八野に聞かせたのだった。

ICレコーダーは、酒井の失意の元に再生が行われた。

 

「ガチャン(扉) お待たせした。俺もこれからの事をちゃんと話した方がいいと思っている。誤解があるのなら解いた方がいいから。 その必要は無いわ。あなたは私が責任者になるのが気に入らないの。だから反対しているの。 そうじゃない。責任は2人して取ればいい。今まで通りが一番いいと私は思っている。 ほら、気に入らないんじゃない。もう話す事は無いわ。あなたとはもう一緒に仕事はできません。さようなら。 何だよ、話をするんじゃないのか?待てよ! カツカツ(靴音)ガシャン(扉) ・・・ プツ」

 

「お話になりませんな。しかもさよならって・・・」

 

「実はね、八野さん、私はこの後上の者に呼ばれたんだ。彼女は上に、その・・・私がセクハラ行為を働いたと訴えたらしいんだ。この話し合い中に、私が彼女に好意を持っていると告げたと言ってるらしい。私はそんな事は一言も・・・。」

 

「それ、上は信じちゃってるのか?」

 

「それはわからないが、上に逆らっているのは私だからね。上は完全に彼女を擁護している感じです。」

 

「あのねぇ、セクハラ被害ってのは被害者の方に立証責任がある。彼女はその責任を果たしていないじゃないか。それを鵜呑みにするのは、会社側はかなりのリスクだぜ。それで上は何て言ってるの?」

 

「事実上は解雇だが、自己都合による退職扱いにしてやるから、これを出すように言われました。」

 

酒井は渡された書類を八野に見せた。

それは「自己都合による退職」の覧に丸が付けられた退職通知書と、ごくありふれた文例が書かれた退職願だった。

 

「酒井さん、それ出すのか?」

 

「ええ、私は出そうと思っています。これを私が出せば、全て丸く収まると言うのであれば、出そうと思っています。」

 

「それでいいのか?本当に。」

 

「ええ、友子さんの事を考えたら、私が去る事が一番いいと思います。」

 

「ちがう、ちがうよ。なぁ酒井さん、あんたは自分が持っている権利を放棄しているんだぜ。その権利を行使する事によって、もしも友子さんが不利益を被るとしたら、それは友子さんが負うべき責任だ。酒井さん、友子さんの事を考えればこそ、これを使うべきだ。友子さんに2度とこんな過ちを犯して貰わないためにも、だ。」

 

「・・・」

 

酒井の脳裏には、今まで友子と共に働いてきた楽しかった日々が思い出されていた。

利用率を上げるために、友子と一緒に知恵を絞った日々。

食材のロスを防ぎ、クォリティの高いメニューを考案する友子のプランを、自分の腕一本でクリアする喜び。

そして利用してくれる社員達の笑顔と、ご馳走さまという声。

酒井が求めていた仕事が、確かにそこにはあったのだ。

ふいに酒井に、そんな充実した職場を追われた怒りが込み上げてきたのだ。

 

「八野さん、やってくれますか。私は・・・何故会社がこんな辞令を出したのかが理解できないんだ。」

 

八野はニヤリと笑みを浮かべ、千尋に言った。

 

「千尋クン、犬飼先生に電話だ。」

 

犬飼法子弁護士は、八野や杉原とも旧知の仲だった。

彼女の法解釈は、必ずと言っていいほど弱者の有利になるように語られ、それはまるで魔法の様に判決に影響を与えた。

弁護士と言う職業は、かなり分野に幅の広さがあるものである。

どの弁護士も得意分野と不得意な分野をもっている。

犬飼弁護士は女性と思い侮っていると、痛い目に遭うほどの知識と行動力を持っており、民事においてはその不得意分野はほぼ無いに等しかった。

そしてその知識は、決して悪に加担する事は無かった。

八野も杉原も、彼女を非常に頼りにしているのは、そう言った理由からだった。

 

その後、八野は酒井に同行し犬飼弁護士の事務所へ向かった。

そして酒井自身から、犬飼弁護士に事情が語られ、重要な証拠となるICレコーダーが再び再生された。




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