地上の波season2 ④
- カテゴリ:自作小説
- 2014/05/23 22:46:06
「随分と簡単なケンカしてるじゃない。ねぇ、八野ちゃん、私はあなたの使いっぱじゃないのよ。こんなのがあったら誰がやったって負けはしないわ。」
「そんな事言うなよぉ、せんせー。手続きとかそういうの、俺は面倒なんだよ。たのんますよ。」
「ふふ。酒井さん、大丈夫です。大船に乗ったつもりでいてくださいね。」
「よし、おっけ。酒井さん、このせんせーがそう言うんだから、大船どころかベントレーコンチネンタルRにでも乗ったつもりでいなよ。」
「はい、よろしくお願いします。」
そして犬飼弁護士は八野の耳元で、こう呟いた。
「八野ちゃんさ、今度はもう少し遣り甲斐ある案件持って来てよねぇ。これじゃあ私、手続きの代行みたいじゃないのさ。」
「せんせー、ウチみたいな所にそんな大事件来る訳ねーじゃなんか!」
通常、労働問題でのトラブルは、労働審判を起こす事になる。
一般の裁判よりも早く決着がつき、費用もかからないからである。
そしてその効力も、裁判と同じ効力を持つ。
もちろん、労働審判の判決に不服があれば申し立てる事も出来、そうなった場合には訴訟を起こす事になり一般の裁判へと移行する。
酒井の労働審判は犬飼弁護士の迅速な手続きにより、スムーズに行なわれる運びとなった。
会社側がその存在を知り得なかった決定的な証拠であるICレコーダーによって、労働審判は酒井の圧勝に終わる事になる。
結果、酒井の解雇は取り消されたが、今回の酒井の最も納得が行かない部分である、友子の昇進の辞令という前例があったため、酒井は復職の選択はしなかった。
代替案として金銭的解決の道を探った結果、このようなケースでの上限と設定とされている月給の6か月分を会社側は酒井に支払う事で決着を見た。
酒井はその解決金と、今まで貯めた預金、そして足りない分を銀行に融資を求め、小さなビストロを開店する行動を起こした。
カウンター席と、テーブル席が3つのほんの小さな店だったが、酒井にはそれで十分だった。
今まで培った自分の料理に対する情熱を発揮するため。
来てくれた客に、多くの満足を得てもらうため。
そして、自分の生甲斐を見出すためのお店。
ひとつだけ心もとないのは、スタッフがいない事だった。
そしてまた、八野が動く事になる。
萩原証券は、今回の件によって社員食堂のスタッフを一度解体した。
社員食堂は大手居酒屋チェーンの手によって、管理運営される事になった。
それにより、折角就職した日野も職場に居辛くなった形だったのだ。
セントラルキッチンで調理された食材が配送され、それをマニュアルを元にオーダー処理される。
そしてサービスもマニュアルに沿った形で行われる様になった社員食堂に、日野も魅力を感じなくなったのである。
それを感じた八野は、日野に転職を勧めた。
転職先は、言わずもがな酒井のキッチンである。
日野はほんの数週間だけ一緒に働いた酒井の仕事を、その的確な動きや正確さ、何よりも料理のクォリティの高さにある意味でのショックを受けたほどだった。
この人から何かを得たいと思っていた所での、酒井の突然の退社にいささかがっかりしていたのだ。
会社も今回の件で解雇に二の足を踏んでいた状況で、両者共に非常に円満な形で退職が処理されたのだった。
そして酒井の念願だった店が、ついにオープンする事になる。
店の立地は、萩原証券から200メートルほど離れた場所だった。
さほど広告なども打っていないにも関わらず、噂を聞きつけた萩原証券の社員達までもが昼食に足を運んでいるようだった。
価格は社員食堂のそれと同じいう訳にはいかなかったが、ありふれた味と素っ気の無いサービスよりも、社員達は酒井のお店を選んだと言う事だろう。
店が狭いと言う事もあり、時には店の外に待つ客が出来るほどに繁盛を見せた。
全てがいい方向へ。
たったひとり、過ちを犯してしまった人を除いて・・・。